*second landscape
高1-夏
よそ見をしていたから、アルミ缶の角が凹んでいたなんて知らなかった。
「――真性のバカかオマエは」
泉は呆れたように口の端を下げて、荷物の中からタオルを引き抜いた。
「なんかこれ温いし、補充したばっかで売り物落としたんじゃね?」
コンクリの石段から浜田が置いた缶を持ち上げると、泉は運動公園の手洗い場で飲み口に水が入らないよう角度を付け、その周囲を流しにかかる。
言われてみれば、おもむろに被った炭酸に「冷たい」とは思わなかったと浜田は納得した。
隣で洗えるだけの糖分を流し、少し凹んだみたいな素振りで水飲み場の台に腰を預ける。ふぅんと抜けるような息を吐いたかと思うと、浜田は一回り小さくなって渡されたタオルに顔を埋めてしまった。
「炭酸さー、自分の方に向けて開ける?」
「いや、いちいち考えて開けてないよ」
「――やっぱバカだ」
「バカバカ言うな真性1年坊主」
言った。
しまった自滅した。そう思った時には大概遅い。
浜田は毛足の長いパイル地の隙間からそろりと目を上げた。白い繊維でソフトフォーカスが掛かったような視界の中心には泉。
洗っていた缶を脇において、巻き添えを食った腕を蛇口の下に差し出している。
一度着地点で歪んだように盛り上がった水は、撫でるみたいに腕を滑り落ちていく。指先から離れて、少し遠い植え込みの緑を逆さに映しながら、途絶えることのない流れの緩やかさが視覚に心地良かった。
「バカやった浜田以外、真性じゃねえ1年も2年もオレの知り合いにはいねーよ」
「あーそりゃ悪いね」
にべもない。
蛇口を閉めて。あ、コイツ今したり顔しやがったな。
そう思って見ていたら、手からタオルをさっと引っ手繰られた。
泉は水気を吸って柔らかくなった生地を当てて水滴を拭っていく。留まりきれずに肘から離れた水が、シャツに滴々と染みを作っていた。
「そんなに嫌?」
続きに拭って手渡してくれた缶は、液体の揺れる感覚が半分くらいの位置まで下がっていた。
「なら言われないようにすりゃよくね?」
オレが何を嫌って? 浜田がそう聞き返す前にバカ呼ばわりの続きだと知れる。
4月前半には聞かなかった「バカ」という言葉は、途中から日が経つごとに増えていった。いまや浜田本人を特定した反射で言っているんじゃないだろうかと感じるくらいだ。
といっても、泉の暴言はバカだけには留まらないバリエーションで乱打されるから、「バカバカ言うな」と言ったカウントの中には他の単語も含まれていて、浜田はそれをニュアンス込みの一定条件でより分けた。
さらに、浜田は泉の「バカ」を大きく2つに分類している。
「嫌ってよりさ」
一度言葉を切ってアルミ缶を傾けた。
買った時に申し訳程度冷えていた炭酸は、温かいくらいの水で表面を洗われたため、とうに常温に戻っていて、刺すような甘さが喉にこびり付いた。
こりゃ駄目だ。缶を逆さにすると外側のプリントとよく似た薄い黄色の液体が、気泡を立てながらどんどん排水溝に飲み下されていく。
「言葉のバリエーションすくねー」
泉の表情が少し薄くなった。
不本意だけれど、売り言葉に買い言葉なんて大人気ない真似はしたくない。それなりの意思表示をしている顔だ。怒っている時の顔ではない。
「愚かとか? ふつう使わなくね?」
「違うよ」
周りに人気の無いのを確認すると、姿勢を崩したままで右腕を振りかぶり、浜田は空き缶を放り投げた。
缶は、高みで夕焼けの弱い光を角に集め、きれいな放物線を描いてくずかごに入る。トサリ、と軽い音が立った。
「何やってんの……あそこに捨てちゃだめだろ」
分かってる。それに缶を捨てるゴミ箱は、泉のすぐ脇に自販機ごとあるのも知っている。
誰かに見咎められる前に、浜田は少し離れたくずかごまで走った。
「んなことやってるからバカだっつーの」
5段飛ばしで段を飛び降りると、後ろから、少しだけ弾むみたいな声だけがついてきた。今のバカで今日は2つと2つ。片方は文字通りの意味だ。
ベンチのすぐ隣のくずかごは、近づいてみればビニールを取り替えたばかりで空っぽだった。中から手触りだけで全く重さの無い円筒を拾い上げて振り向くと、水飲み場のある石段の上を制服姿の高校生達が自転車で通り過ぎていく。重なっていた自転車の影が後尾の方ではまばらになり、やがて片手にタオルを握り締めたままの泉が姿を現した。
石段の下に探す素振りもなく真直ぐ視線を向けている。多分、目前を横切った人の波に焦点を当てることなく、一度も目を逸らさなかったのだろう。
「いずみー! なんでそんなずーっと思いっきり見てたのーっ?」
石段を半分くらい登ったところで段上の泉に指摘してやると、はっとしたみたいに僅かに肩が揺れた。
「今目離したらロクなことしねーだろ」
「なんだよ浜田かっけーとか思ってたんじゃねえのかよ」
「うわ――浜田だっせーの勘違い? それとも浜田バカだーの勘違い?」
「おー、今日は2:3だ」
「なんだそれ」
訝しむような声を聞き流しながら浜田は笑うと、泉のすぐ隣で口をまるく開けた箱に缶を落とした。
「オレ最近気付いたんだけど、バカって他の言葉にちょっと響きが似てなくね?」
正しいバカが2、フェイクが3。
最後のバカはフェイクのバカ。この差が分かる? 泉。
ウエハースのおまけシールみたいに、剥がすと別の言葉が出てくるってこと。
バカは気持とうらはらな言葉を使うときの代表選手なんだってこと。
泉は知ってた?
「アホ?」
「はずれ、当ててみな」
横の自販機に肩を預けて浜田がにやりと笑った。
浜田らしい下らないクイズだと泉は思った。やっぱりバカはバカだとしか思えない。頭を巡らせてもピンと来るものもない。
「クズ?」
「はずれ、意味もっと違うって」
それとも何かの引っ掛けだろうか。意味の違う響きの似た言葉。響きが似てるってことは二文字の言葉なんだろうと見当が付く。
ヒントはきっと最後のバカだろう。嘘か本当か知れないけれど浜田の解釈が付いたのだから。
なんて言ったっけオレ?
『浜田かっけーとか思ってたんじゃねえのかよ』
『浜田バカだーの勘違い?』
泉は首をかしげた。解釈が付いたのはバカに対しての言葉じゃなかった。確か最後、それに返した言葉にバカって言ったんだ。
その前は? その前はコイツなんて言った? オレがどうかしたって言ってなかった?
(あっ――)
思い当たってしまった。
考え事をしている時、探していた答そのものか、それとイメージの似たなにかが合致すると、頭はそれきり模索を止めてしまう。
苛々するくらいどれだけ考えても、払拭しようとしても、浮かんだ答えにピントが合いすぎて他のものがぼやけて探せなくなってしまうからだ。
今の泉がそうだった。
今更他の回答が思いつかない。
答えは間違えているかもしれない。でも合っているとしか考えられなかった。
おまけにその答えときたら、それが正解なら、泉は浜田になにもかも読まれていたことになる。
気付かない間に、それも泉にとっては少しどころではない、もしかしたら自分自身さえ知らなかったうちから浜田は泉の心情を読み取っていたのかもしれない。
ふと過った疑問が憶測を生み、それが確信に変わるくらいの時間を掛けて。
そして今も。
泉がずっと自覚してきたものは、雲や霧のように掴みどころのない緩やかな想いだった。はっきりと象られることを恐れているかのように言葉として思い浮かべることのできなかった感情。それを今突然、強引に超えさせられたように感じてしまう。
現実と感情の結びつきを意識してしまうと、手が冷えて、自分の胸の内を吐露してしまいそうで呼吸すらままならなくなった。出てもいない汗を拭いたい衝動に駆られたし一目散に逃げ出したい。膝から下が震えるみたいで、体がひどく重たくなった。
「わかんねーよ、もう暗くなりそうだし帰んね?」
普通に喋れているのかさえも怪しくて、でも何も言わないわけにはいかない。
「オマエ雑だなあ、ヒントやるからちゃんと考えろよ」
笑っているはずの浜田の顔は、もう何がなんだか分からなくてよく見えなかった。それなのに声の途切れた口が無音のまま続けて並べた二つのかたちが分かる。こんなに短い言葉、読唇術なんて知らなくても、誰でも容易く理解できた。
かたちを言葉に変換すると、日暮れより早く視界が墨を刷かれたように暗く沈んで、分かったろ? そう言った声は、実際の距離よりずっと遠くから聞えたような気がした。
「いい、帰ろうって」
「言えよ」
「帰ろう、はま……」
「オレに惚れちゃったって」
全部言い切る前に喉が潰れて、漏れた空気がひゅっと鳴る。
「なあ泉、オレと付き合う?」
「――それ思い上がりすぎ」
それだけ取り繕ったのが精一杯で、本格的に目の前は真っ暗だ。
なんだか耳鳴りがして平衡感覚も狂いだして、ついには気分が悪いとすら泉は感じ始めていた。
人を好きになると見える景色が変わるなんて聞くけれど、こんなに真っ暗闇だなんて。
「オレを思い上がらせたのは、簡単な答えも言えなくなった泉だよ」
放心して何も無い空間を追っていた泉の目が、名前に反応したようについと上がった。続けて言葉に反応するように、少し開いた口は「え?」と単純に聞き返したかったのだろう。
結局声は出ないままだった。
「どうする? 怖いならオマエが決めな、怖くないならオレが決めてやるよ」
浜田の言葉はまるで泉に二択を任せたみたいに聞こえた。けれど多分、結局どちらを選んでも同じ景色へのドアが開く。
停止してしまいそうな思考の中、泉はそれだけを理解した。
夏/投/列/島/薬/局/
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