*あかね色の空にとける
お題「ごめん」改題
※タイトルは水上勉の「櫻守」文中より拝借
高1-夏
部室棟の方から何人かの聞きなれた声がしていたから、校舎の角を曲がったところにいても練習試合が終わったのだと判った。
「野球部、今日は練習試合の後解散みたいだな」
「いい時間だしね、こっちもそろそろ片付けようか?」
打ち合わせ兼、練習のために集まっていた援団の面々は携帯で時間を確認し、浜田を見る。
「ああ、じゃあ解散ってコトで、また明日よろしく」
部活を抜けて来ていた松田と深見は、「任せておけ」と応援用の楽譜を手にして扇ぐと、手早く身の回りをまとめて腰を上げた。
挨拶もそこそこに、植え込みの間に人が踏んで出来た細い抜け道を通り、まだ練習の音をさせている吹奏楽部の部室へと小走りで戻っていく。彼等は彼等で、この時期はコンクールが控えているものだから時間は一分たりとも余せない。
音が鳴るため野球部ほどには練習時間が延ばせないけれど、それでも毎日夜の8時まで、吹奏楽部も違わずみっちりと練習が詰まっていた。他にもいくつか本番を抱えており、文化系の部でありながらどこか体育系の部ような体質を持っている。
壁のようになった潅木の植え込みの向こうで、縦に持って走っていた松田のペットが弧を描いて翻ると、慌てたように詫びる声が重なった。
部室棟の曲がり角で誰かと行き合ってしまったようだ。
ごめん、と振る頭の先が見え、それが避けるように動くと建物の影に消える。身長が足りずに所在が分からなくなった深見もおそらく後に続いたろう後で、なにやら大きな塊を顔に当てた泉の姿が、抜け道の向こうをさっと横切った。
援団には気付かぬ様子だ。
変に直線的な足取りで、西浦のロゴを縫い取った帽子だけが緑の植え込みの上をすたすたと横切っていく。
「ああ、なんだよアイツ、練習試合で怪我してやんの」
「何?」
「ほら泉、なんかアイスノン当ててた」
雑談していた梶山と梅原が、浜田の指す方に目を向ける。二人は植え込みの端に再び姿を現し、右腕を折り曲げて顔を掴むような格好で歩く泉を視界に捉えた。
「ほんとだ。なんかアイスノンってさ、ミョーに痛そうなんだよなぁ」
「あー、分かる分かる、虫歯ん時の痛さ想像しね?」
「するねー、考えたらオレ歯痛くなってきた」
梅原は痛そうに顎の骨を擦り、梶山は、それを見て笑いながら相槌を打っている。
「おいおい――虫歯なわけないだろ」
浜田はボタンを外した学ランに両手を掛け、ばさばさと扇いで中に篭った体温を逃がしながら呆れた声を出した。そのくせ自分も歯痛を思い出したような苦笑いを浮かべている。気には掛かるのか、様子を見てくると梶山達に断りを入れるが早いか、浜田は軽く跳ねるような足取りで二人を置いて行ってしまった。
木立の隙間からは練習着姿の人影がちらちらと動いている。
浜田に置いてきぼりを食った梶山と梅原が、視界の端で働き蟻のようにして動く白い影に目を向けると、自転車の荷台から荷物を降ろす栄口が気付いて帽子を取り、にこやかに会釈を寄越した。
後ろから歩調の違う足音が付いてくる事に気付いて舌打ちすると、顔の筋肉が動いて冷却材の下の頬骨がまだ熱を持ったまま、ずきずきと痛んだ。
歩く速度を速めても、小まめに物陰を選んで通っても、足音は背後から同じようについてくる。
しばらくは放っておいたものの、我慢できずに泉が半眼で後ろを睨むと、嫌なものが数歩後からやってくるのが見え、もう一度、あからさまな舌打ちが鳴った。
気持ちの凹みを持ち直すために態々部室から離れてここまで来ているというのに。
邪魔なことこの上ない。
「なに浜田」
たっ、たっ、たっと軽々地面を蹴る音。
呼んだ訳ではないというのに、浜田は跳ぶみたいに大またで3歩、すぐ後ろに着くよう距離を詰めてきた。
日暮れの近い校舎裏で、他に動くものはない。泉の目は1歩跳ねるごとに浜田の小脇でゆさりと大きく揺れる学ランの動きを追って、小さく縦に振れる。
すぐそんな反射の動作すら気に入らないみたいに前を向き、また、半ば前傾姿勢になって歩調も早く歩き始めた。
「泉、怪我してんの? どんな?」
「大したことない」
ふーんと返事のあった後は無言で、でもやっぱり後ろを付いてくる浜田を咎めることも振り切ることも煩わしく、結局何もしないままに戸外通路を越え、泉は植込みの隙間を潜っていった。
目的地だったそこはもう学校のほんの端の方で、敷地の外に向いた斜面の手前にぽつんと一つ水のみ場があるだけだ。
周囲を広く見渡せて、元より常に人の足が無いその水飲み場は、雑音を払いたい時にはもってこいの場所だった。それが暗黙の了解になって余計そうなのかはしれないけれど、用もなくふらりとやってくる生徒もあまりいない。
それだけに、泉は無遠慮についてくる浜田が煩わしくて、怒りにはならない程度の不満を腹の底でかき回しながら水飲み場の台へと一直線に近づいた。
空を一面に染め上げているオレンジ、そこからまだ少し赤みの差した色合いの夕焼けは、瞳を通り抜けて体の中を低い熱で焼くような色で、じわりと目蓋の中の粘膜を乾かすような、どこか泣きたいのに泣けない時と似た刺激を目に与えて広がった。
同じ色の歪んだ線が映る銀色の蛇口を捻ると、頬に当てていたアイスノンを水飲み場の上に一度置き、泉はぶつけていくつかできた擦過傷を洗いはじめる。
「それ、消毒してもらった後に洗うとバイキン入らね?」
「瘡蓋(かさぶた)が引っ張れて痛ぇんだよ」
ふーん。
伸び上がりながら、浜田は会話をそこで切るように返した。
「なあ、用が無いなら帰れば?」
返事は無い。
そのまま見向きもしないで、泉は攣れていると本人が言う傷の上を濡らした手で何度も撫でる。傷口の収まりがよくなると水を止め、また顔をアイスノンで被った。
浜田は何も喋らないけれど、水飲み場の端に組んだ腕を乗せ、消える様子もなく横の方に留まっている。
泉も浜田を去らせることを仕方なく諦めて反対側の側面に回り、ゆっくりと屈伸するようにして膝を曲げた。
腰を下ろそうと俯いて身体を丸めると、帽子の鍔に隠されて暗く陰を作ったはずの目がもう一度、さっと橙の光に曝される。
虚を突かれ驚いて思わず顔を上げてしまった頭上からは、風に叩かれて、はさ、と音を立てながら黒い大きな影が落とされてくるものだから、泉はそのまま姿勢を崩して尻餅をついてしまった。
学ランの襟の隙間から覗いた片目がはっきり、近づくなと苦情を訴えて頭上を睨み上げる。いつの間にか浜田はすぐ隣にいて、今しがた泉から掻っ攫った帽子を指でくるりと回していた。
取り立てて何か言うでもなく帽子を手にしたまま水飲み場の上に手を着くと、そのまま弾みを付けて腰を乗せ、浜田は片足を膝の上に組んで座り込んでしまう。
どうにも退いてくれそうにはない。
垂らしたままの素足の先で、下駄が今にも落ちそうに揺れている。
「帰ればっつーのに」
「いいじゃん邪魔しに来たわけじゃねえし、オマエは勝手に凹んでればさ」
ひゅうひゅうと上空で鳴く風の音よりずっと近くから、構わぬような声が降ってくる。
そう言われてしまえば、返す言葉も無かった。
半端に開いた膝を胡坐に直すと、地面に着いて広がる黒い生地の端が目に入る。姿勢を崩しているとはいえ、頭の上から被ってなお引き摺る大きさが気に食わないのか、泉は膝の上に肩肘を落として一層小さく丸くなった。
裏地がついて風通しの悪い冬服は、中に空気が篭る。
それはすぐに体温を吸って外気とは違う空間を作り上げると、不本意ながら暑苦しいはずの狭い場所は存外に居心地が良かった。
持ち主の匂いを移し取った制服が主の気配を上手く誤魔化してくれるから、頭上にどっかり腰を下ろしているはずの浜田が気に障らない。
目を閉じ、鼻先に緩い空気の流れを受けながら、頬の痛みだけに意識を向けていると、泉は楽に一人になれた。
練習試合中、光の反射が目に入り、捕らえ損ねた飛球を顔面に浴びて転倒してしまった。
相手高の選手も自高の連中の目もある真っ只中で、痛みで起き上がれず人の手を借りた。もう、恥ずかしいやら情けないやら、めちゃくちゃにカッコ悪かった。
結果、気持ちのどこか深い場所にぶつりと開いた、針の穴ほどの隙間に吸い込まれてしまったような落ち込みに襲われたけれど、これは深刻な理由なんて何もなくて、原因を突き詰めなくても黙っていればきっとすぐに浮上する程度のものだ。
強いてそれを探せば、確実に捕らえられると思った飛球を前にして現れた油断に凹まされたことだろう。
夕日の赤い色を受けて電熱線のようにオレンジの縁を光らせる雲が、段々と地表の影をうつし始めて色合いを落としていく。空の移ろいの美さを黙って受け止めながら、どちらも何か言うでもなく、時間が緩やかな風に流されていくのを黙って見ていた。
ふいに校舎の方から人の気配がして浜田は目を向ける。
少し意外な人物に「へえ」と内心で驚いたけれど態度には出さず、黙ってその動向を眺めた。
姿が見えないのを気に掛けて探しにきたらしい阿部は、浜田に会うとは思わなかったのだろう。ふいを衝かれた顔をして、止まりきれずに数歩進めた足をやっと留めたように離れたところで立ち尽くした。
阿部も人を気に掛けて様子を見に来るようなところがあるのかと感心してしまう。
浜田の目に、どちらかと言えば阿部は、落ちた人間の相手が苦手なタイプに見えていたから、扱いに困って自分から近付こうとしないだろうと思っていた。もっと沢山の人数がいる部なら知れないけれど、数の少なさに一人欠ければ嫌でも目立って、放っておくことができなかったのかもしれない。
立ち止まって躊躇する様子で、それでも浜田の向こう側に蹲る人影に声を掛けようとしている。
ああ、今来んなよ、オマエがばっさり切られて凹まされちゃうよ――。
浜田は内心で呟いた。
黙ったまま眼で訴えているのに気付いたか、阿部は一瞬固い顔をすると、踵を返して戻っていった。
後姿を見送りながら本当に仲の良いチームだと、自然に浜田の口元が笑む。
彼等を見ていると、一匙の寂寥感が喉元を下った後、羨ましいような、嬉しいような、それから誇らしいような気持ちが胸の中に生まれてくる。
「泉、そろそろみんな気にする頃じゃね?」
呼びかけに泉は顔を上げたけれど、学ランを深々と被っているために鼻から下しか見えなくて、どんな顔をしているのか浜田には判別が付かなかった。
「阿部が気にして様子見に来てたし」
「――阿部?」
意外そうな声が聞える。
「やー、オレもちょっとびっくりのヤツが来るもんだと思った。――良いチームだな」
さっき内心で漏らした言葉。
つい口を滑らしたことを後悔して、一度空に逃がした視線を警戒しながら戻すと、頭に被っていた学ランを退けた泉が黙って浜田を見上げていた。
まだ諦めていない。
浜田がグラウンドに戻ること。
「帰っか、泉」
何も言わないだろうと分かっていたけれど、何も言わせないように、その眼差しに気付いていないことを示す。
身体を低くして野球帽を差し出すと、それでもまだしばらく黙ってから、泉はやっとそれを引き取った。
オレは戻んないよ――ごめんね。
夕映えの色は淡く光を消しながら風を引き連れ、この町の向こう側に沈む太陽を追いかけて去っていく。
夏/投/列/島/薬/局/
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