*ふゆのひ
お題「できること」改題
高3-冬
学舎を見たいから、願書は直接買いに行く。
新宿へ出て、そこから乗り換える――。
指が経路を辿っていく。
不慣れな土地を歩む動きはぎこちない。
教室でクラスメイトから借りた小さな路線図を広げていると、
「オレもいこっかなあ」
頭上から、声が降りてきた。
冬の、冴え冴えとした空気を詰めた四角い箱の中。ふとした暖かさを帯びて落ちた声は路線図に届く前に消えて、泉はその、消失点を探すように顔を上げた。
「何しに?」
「なんとなく。あんまり都内出ないし」
ふん。と、しばらく品定めするような面持ちで浜田を見遣り、
「なんか自分の目的作って行けよ」
とりとめない声で答えて、泉はまた路線図へと目を落とした。
「大学なんかの敷地に入ることもないしさ」
「ンなもんいつでも入れんだろ? 小中高と違って人の出入りなんか不規則だし」
「だし、オマエ、道迷いそうじゃん。 路線図見ながらこーんな顔して」
浜田は笑いながら眉間に指を当て、難しい顔をしてみせた。
「迷わねえよ。だいたい、なんでオメーに引率されなきゃなんねえんだよ」
携帯のメモに乗り換え経路を打ち終えて仕舞う。泉は埃を払うように手を振って、邪険に浜田を追った。
このところ少し浮いたような、奇妙な隙間を感じて居心地が悪い。部を引退してから、こんな風にしてしまう。
浜田に対するほどの顕著さは見えないけれど、田島や、花井や、水谷、三橋、それから後輩を含めた他の部員達、野球部関係者のすべてに多かれ少なかれ、最近の泉はどこか突き放したような態度をとることがあった。
けれど傍目には、泉は至って普段どおりに見える。
元から少々人に依らないところもあったから、当人が気まずい、ひやりとした感覚を自分の態度に伴うだけであって、これは相手には変化がわからないくらいの拒絶だ。
やりすぎたろうか。
思い直して正面を向くと、浜田はふざけて、ちょっと不貞腐れた風に机の下をゴツンと蹴ってきた。
縒りを戻すとか戻さないとか。
特に男女の関係に対して、糸に喩えることがある。
それとは全く質の違うものだけれど、一時、親密な関係にある者同士の過ごす、添い合うような時間は、別々に生まれた木綿の単糸が双糸に紡がれるように、個々を保ちながら隙間なく同じ姿をしているもののようにも見えなくはない。
双糸の縒りには必ず始めがあるように終わりがあって、そこはまた、それぞれの糸に分かれている。どれほど密であろうとも、どんな姿をしていようとも、その先が一つになっていることはない。
学年の差があったために一年分緩んだ後、西浦高校という、あるいは高校野球という紡ぎ車でふたたび縒り直された泉と、浜田という名前のついた糸は、もう、あとほんの少しのところで、予めそこで予定された分を紡ぎ終える。
そしてその先は、やっぱり単糸に分かれて、今ある紡ぎ車の溝の上から外れ、どこかへと滑り出てしまうのだ。
残り数ヶ月分をおいた先はそれぞれ明後日の方向へ向いていて、きっとそのまま、どこか違う溝へと通されるのだろう。
その先は、多分もう、交錯しない。
双糸は既に、縒り手が休み始めたよう緩んだ隙間を抱いていて、だから泉は自分の周りにでき始めた、不安定な空間を感じてしまう。
「蹴んなよ。足クセ悪ぃ」
心地悪いゆらぎを削り取るように、泉はさくりと言葉で浜田を刺した。刺して、本当なら、その言葉の棘で引き寄せ、緩みを正したい。
「オマエは人のこと言えるほど、行儀よくねえだろ」
けれどそれは、浜田が笑った拍子に簡単に外れて跡形もなく消えていく。
「なあ――、もう本鈴鳴る。教室戻んなよ」
浜田が黒板の真上に掛けられた時計へと目を向けた。
針は間もなく午後の授業の始まる位置を差している。何気なく「じゃ、放課後」「おう、後でなー」なんて、いつもみたいにやり取りして。見慣れた背中は、惜しむ素振りもなく教室から出てしまう。
すると、緩みは一層大きな存在になって、泉の周囲に浮き立ちはじめた。
何かの予兆のような、この感じにはおぼえがある。
ものがものだから、自分でも笑ってしまうのだけれど。
記憶が曖昧に抜け落ちるくらい随分昔、虫篭に飼っていた甲虫を知らない間に処分された時のこと。
今頃になっても思い出してしまうのだ。
遠い昔のことなのに、当時は両手で、今なら片手で摘むくらいの、硬質で艶やかな塊の記憶が、数秒前あったもののように蘇る。
『死んじゃってたのよ。さよならしようね――』
家に帰ったある日の午後。空の虫篭を指して母は言った。
いつも居た縁側にも、家のどこからも忽然といなくなった友達を探して、泉は拳で母の膝を打ちながら、涙で色の変わっていく青いスモックを、歪んだレンズ越しにいつまでも見ていた。
愛着ある姿を目に入れて安心したくて、触って確かめたくて、けれどどちらも叶えられなくて。
日常に馴染みきったものを手放したことなんて、数え切れないくらいなのに。別れの唐突さが別離の色を褪せずに残してしまったのか、十年を超えて時が経とうかという今になっても、泉に喪失感だけを鮮やかに思い出させる。
心に何の準備もできていなくて、受け入れきれなかった。
きっと今度も、同じものが残る。
そんな気がしている。
土曜。
とりあえず、起点としていた新宿まで出た。
泉は近い場所から右回りに、組んだ順路のとおり目的地を目指す。
駅から離れた学舎もいくつかあったけれど、たいてい、最寄り駅に降りれば学生らしい通行人がいた。道の向こう側からぽつぽつと間を空け、数組が泉の――。いや、駅の方へとやってくるから、引率がなくても迷わずにすむ。
大学は、企業かと見まがうばかりの近代的なビルのところも、古い石造りの門からありきたりに、ケヤキの並木道が伸びているところもあった。どちらも門から全容を仰ぐと、規模の大きさに圧倒されてしまう。
願書なんて、郵送で簡単に取り寄せられる。それを時期も差し迫った頃、いかにも受験生ですと抱えて歩くのには少々気恥ずかしいものがあった。だから、いつも練習着を入れていたカバンを空のまま持参して、四角い板みたいな封筒を足し入れ揺らしながら歩いた。
樫と青銅の柵に沿い、最後の大学から駅までの道を泉はひとり戻っていく。
車が楽にすれ違えるぐらい、幅のある道路。
左右に学生御用達の店が立ち並ぶ間を、縞のように細い路地が仕切っていた。路地の両側には大きさもまばらな、灰色のシャッターがひっそりと列を成している。
講義の終了時間に行き合ったのか学生らしい通行人が多い中、それらの通りは閑散としていた。よく見ると、夕暮れ時になれば店を開けるような、安い居酒屋が軒を列ねている。
馴染みのあるカラオケやファーストフード店の陰に佇む路地から、曖昧に、先々身を置くことになると感じていた社会という場所が、急に差し迫ってきているもののように思えて泉は喉をこくりと鳴らした。
周囲を取り巻く学生。
笑いながら歩みを進める姿は雑踏に押し流されて、世の中に呑まれていくように薄ら寒く見える。
未来に対する期待より、塞ぐ気持ちのほうが勝ってしまうのは、時期的なものだろう。同じ道を目指して力を合わせる仲間もいないし、小さな頃思い描いた未来の姿どおり順当に前に進むのか、落とし穴があるのか、先が見えないという不安。
そこへ親しい人々と別れる寂しさを抱えているからだ。
通りかかったコンビニの窓へと目を上げる。
浮かない顔をした自分が賑やかな学生の群れに溶け込めず立っていた。
ガラスに映る見慣れた顔に目を凝らして覗く。
と、直線上の雑誌コーナーで立ち読みしていた学生と目が合った。ちょうど欠伸をかみ殺すために学生が雑誌から視線を外したところだったから、気まずい顔でどちらも、ちょこん、と頭を下げて会釈しあう。
厚手のパーカーの中にチェックのシャツを着込んだ学生は、お互いの行動が可笑しかったのか、照れ隠しか、頭を下げたままで頬を緩めた。
『ジュケン?』
その口が、一音ずつ読めるように大きく動く。
願書の入ったカバンを差されて見下ろしてみると、なるほど、後生大事に腕で抱えて、掛けた指が白くなるほど力を込めている。人から指摘されるまで気付かないほど、また、人が指摘できてしまうほど硬くなっていたことが恥ずかしくて、かっと頬が熱くなった。
慌ててカバンを手放す動作は、自分でも少し滑稽なくらいで、学生にもそれが微笑ましく見えたのだろう。彼はガラスの向こうで一層相好を崩し、立ち去ろうとする泉に『ガンバレ』と手を振ってくれた。
一礼して、それから駅の方角へとまっすぐ向き直る。
様子見をするように二、三歩進むと、不思議な事に、今までひとり浮き上がって感じていた往来が、しっくりと体に馴染んでくるような気がした。
(そんなに、変わんねえのかも)
いつも帰りに寄っていた高校近くのコンビニで、雑誌一冊に群がっていた自分たちと、今し方みた学生が重なった。
「なんだ」
息を弾ませるような呟きに、近くの女学生が振り向く。
構わず、泉は駅へと大きく一歩踏み出した。肩の力が抜けてどこもふかふかと温かく、忘れていた体温が戻ってきたみたいだった。
学生の隙間を縫って駅を目指す足取りは軽い。
三年間、コントロールすることを教え込まれていた緊張に、すっかり呑まれていたのだ。なにも憂うことはない。今が終わってしまうのではなく、今が様々に形を変えながら次へと続くだけなのだから。
硬く縺れた心の糸が痞えをなくし、するりと解けた。
改札を潜って列車の入線表示を見ながら携帯を取り出すと、泉は受信メールの一番上を選んだ。
表示を返信へと切り替える。
件名 なあ
本文 腹減らねえ?
着信は送ったすぐ。
『なんだよ。この一行メールは』
泉の耳に、馴染んだ声が届いた。
喧騒に包まれたホームの上で、それをもっとよく聞こうとするように俯き、泉は携帯に耳を押し当てて目を閉じる。
「反応早いな。飯、食わね?」
『今から? 今どこ?』
「これから新宿まで戻る。一時間くらいで来れるだろ?」
『オマエ着いてくの、嫌がってたじゃん』
「用事済んだ。構内でうどん食って繋いどくからさ」
『飯の前にうどんかよ! つか一時間勉強してろ!』
そう、了解と取れる声を最後に通話は切れた。
「オマエは親か」と返した呆れ声は携帯に吸い込まれず、浮かべた笑みごと初冬のホームへ零れた。
夏/投/列/島/薬/局/
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