*汽水域
お題「海」改題
高3-春
「普通はさあ……1日からだろ? オメーが一番早えはずだろ?」
上からあきれた声に叩かれて頭を上げると、
まとめようとして積み上げていた雑誌の上に、骨張った足が乗っていた。
「引越しや手続きの都合とか色々あるだろうし、再来週で良いってさ」
敷いていたビニル紐を手繰って足ごと縛ると、むき出しの親指が背を反らし、オレを見上げてくる。
そしてオレはその、持ち主の顔を見上げた。
「オマエらの七五三みたいな新入生ヅラ拝み終わる頃に引越しかなあ」
いつもの癖で、口の真ん中をちょっと引き上げた泉を見てからもう一度親指と向き合うと、親指は飽きたみたいにそっぽを向いて雑誌の山から退散していく。
さらりと音を滑らせて、解けた紐を床に踏みつけた足。多分、三年前ならもう少し、何か仕掛けてきたんだろうと思う。
「なん日?」
「なにが?」
「入学式」
「オレの? 6日」
「6日? 小中高みたいだなあ、みんな結構バラけてんのに」
見るからによく走り回っていたことが分かる足の下から紐を抜くと、今度はくすぐったそうに縮こまった。
表面がぎゅっと凹むくらい雑誌を絞めて、括って隣へと避ける。
とりあえず選り分けた処分品は台所脇に全て積み終わった。
後は、決められた日に順次ゴミを出すだけだ。
背中の後ろは広々と空いて、留まる場所なく抜けていく空気が肌寒い。
「どこ?」
「なにが?」
「引越先」
「――あれ? 言ってないっけ? オレ」
「言ってねえよ」
「ココ……の隣町」
不用品、とマジック書きした箱に残る伝票を指差す。
泉はしゃがんで伝票を覗き込むと首を傾げた。
なんで親んとこ帰んじゃねえんだ?
言葉には出さず、ちらっとそう訊いてきたみたいな動きだ。
三年前なら訊いてたんだよなあ、多分。無邪気に声出して。
それから「何かあるぞ」って気付いて、「ヤッベー」って顔してたんだ。
今は「なんか知んねえけど、そっちにはそっちの事情があるんだろ」とでも思ってるんだろう。
多分だけど、なんとなく分かる。
「どんなとこ?」
「引越先?」
「おー」
「なんもないよ、ああ、海がけっこう近いハズ」
「ハズ……?」
「そう、ハズ。まだ行ったことないかんね」
「ああ――」
――そっか。
途切れた声の続きを追って少しだけ目を上げた。しゃがんだ膝の上に肘を当てた泉は頬杖を付き、遠いところを見ている。
「海は東京湾くらいしか見たことねーなあ」
「見たきゃ休みに来りゃいーよ。ウチから近い『ハズ』だから」
何キロも先に遊んでいた視線がゆっくりと引き戻され、段ボール脇の、なんにもない場所で止まった。
「まー、一泊朝食付5,000円ってトコで」
「金取んのかー?」
にが笑いして、こちらへ向けて跳ね上がるだろうと思った視線は予想を外れて落ち、伝票の文字をなぞる。
後を追うように、泉は右手の人差し指で住所の書き始めに爪を立てた。
開け放したドアから射す日光が白く指の先に集まって、そこの輪郭だけが幻みたいに薄く消えている。
「オマエ、軽く言ってくれっけど何時間かかんの?」
「こっから空港まで4時間くらい」
「つーことは18きっぷ使うと」
「新幹線使って10時間くらいか?」
「おいおい……」
とおいなあ――。どちらともなく零した。
それきり、なんにも言うことが出てこなくて床に腰を下ろす。がらんどうの部屋の天井はいつもより高く感じた。
自分の家の中にいるのに、家の外に放り出されたように心もとない。
体を丸め、片手で頬杖を付いたままの背中がひとつ、すぐ目の前にあるだけだ。
ずっと、飽きるくらいに話してきたはずだった。
なのに泉の背中を見ていると、ふと、ここを引き払うまでの時間では間に合わせられないほど、言い忘れたことがあるように感じた。
試しに口をそっと開けてみる。
言葉は何も出てこない。
くだらないことばかりで忘れてしまったのかもしれない。
重要なことばかりで、大事にどこかへしまい込んでしまったのかもしれない。
「泉」
「あ?」
体をひねり、手のひらを顔に張り付かせたまま、見慣れた顔がこちらを向いた。
形のない想いが解けて交じり合う中、言い忘れた言葉を捜索するでもなく、いくつかの、言えないままの言葉をもう一度吟味しなおすでもなく。
ただ、薄ぼんやりと単純な想いが頭を占める。
あと何度、こうして名を呼びかけられるんだろう。
夏/投/列/島/薬/局/
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