*約束2
浜田から泉への。
高3-夏
「あ、うんうん、分かった。リョウカイです」
そう言いながら、篠岡は打順表に目を走らせ素早くチェックする。
そして今日で務めを終える主将に向け、ぱっと花が咲くように笑った。
当日の天気は、雲ひとつない快晴になった。
やり遂げるべき事を終え、それぞれ寂しさはあるものの、一点の曇りも無い部員達の心をそのまま写し取ったような、青空。
空色という名前から連想する色合いそのままの、胸のすくような鮮やかさに、薄い筋のような雲を二つ纏った天は高く、どこまでも広がりを見せてグラウンドを見下ろしていた。
キン――、と鳴るバットの音。
朗らかな声援。
人の手で、大切に、そして丁寧に整備されたグラウンドには、楽しげな部員たちの笑顔が溢れている。
今日は3年制最後の日。
1年から3年までを二つのチームに分けての紅白試合はいよいよ終盤を迎え、1点を追い1点を守る試合展開で9回を迎えた。
9回の裏、追う花井チームでは、7番打者の2年生が二塁打を打ったものの、続く8番の1年生が三振、9番の三橋もキャッチャーフライを打ち上げる結果となる。
思いがけない見せ場に、ネクストバッターボックスで膝を着いていた泉はにやりとした。
同点。
いや、高校生活最後の最終打席だ。ここは逆転を狙うつもりで行きたい。
和やかな空気の中で再び挑む気持ちを呼び起こすと、それを捕まえるようにバットの先でトンと地面を打ち、泉は出番に備えて名を呼ばれるのを待った。
背後で、ああーっという溜め息を吐いた1年生が慌てて口を塞ぐのを、2、3年が笑いながら百枝の口真似でからかう中、アウトになったはずの三橋がニコニコと満面の笑顔を浮かべ、ベンチの外れへと駆けていく。
「三橋、残念だったなー」
軽い砂埃を上げて三橋が行く先には、こちらも役割を終えて部員達より一足早くに引退を迎えた、今は「元」応援団長。短い雑草に足を踏み入れ、のんびりと金網にもたれる浜田の姿があった。
浜田は7回の裏ごろからひょっこりグラウンドに姿を現し、気付いた数人の部員に軽く挨拶をして、そのままみんなから少し離れて成り行きを観戦していたのだ。
「ハマちゃん――」
声を掛けられた三橋は、うひっ、と、1年の頃から変わらない独特のやり方で、少しはにかむように笑った。
三年間で見違えるよう、心身共に成長した我が校のエース。
それでも見違えることがないくらい、1年の春、みんなと共に歩き始めた頃のままの変わらない表情を湛えて、三橋は今日の日を迎えている。
その三橋が浜田の袖を掴み、汗を滲ませた顔を嬉しそうに紅潮させて、くいくいっとみんなの所へ引っ張った。
「なんだよ? みんなの所に行こうってのか?」
浜田は釣られるように笑みを深くすると、目をきょろきょろと四方へ巡らせながら頷く顔を覗き込み、討ち取られたというのにすっかり上機嫌な三橋に袖を引かれるまま、ベンチへと足を運んだ。
すると晴れ渡った空の下、篠岡のアナウンスが高らかに空を切って響いた。
「ここで、花井君チーム、選手の交代をお知らせします」
1番、泉君に代わりまして代打、浜田さん――
『え?』
ネクストバッターサークルから、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をして振り向いた泉と重なり、きれいに揃えて上がる浜田の声にワッと部員が笑い出した。
三橋は、いよいよ、というように、懸命に浜田の袖を引いている。
「浜田さん! 逆転でたのんます!」
花井の掛け声に浜田はびくりと大きな、けれど以前よりは3年生と差もいくらか縮まった体を竦ませると「……いや、――花井、これはちょっと……」、そう、遠慮がちに言った。
けれど、ベンチからは揃って怖いくらいの笑顔を向けられて、どうも言葉が通じていない様子だ。
「ちょっと――ちょっと待て、なんでオレん時!?」
その声を引き取るようにして、泉がベンチの花井に向かって吼えると、
「だって、オマエか三橋くらいが適任だろ!?」
「泉、ここは元後輩として譲れよ!」
花井と、花井チームの3年から口々に野次られた。
半分からかう様な口調から、代打を立てる企みは計画的犯行で、知らされなかったのは自分だけだと知った泉が憮然と口を噤むものだから、水谷や花井はいよいよ楽しそうに囃す。
他に代える候補として挙げられた三橋の行動だって、どう見ても役割を与えられて動いているものだ。
そう思うと、嵌められたようで、なんだか少し癪に触った。
「浜田。行っておいで」
突然の指名にうろたえ、半ば呆然とした背中を志賀の大きな手がゆっくりと押し出す。
そうされてしまうと、浜田は逆らうこともできず、狼狽した面持ちで押し出されるまま小さく一歩踏み出した。面食らっているからだろうか、堅いグラウンドを踏んだ振動が足の裏からダイレクトに頭に響くようだ。
浜田は三橋に引かれ、ユラユラ揺れながら、前へ前へと左右の足を交互に置いた。
「いや、やっぱさ、オレは見てるからいいよ、三橋、袖放して――折角の引退試合だろ? 泉打つ気満々だし、悪いって」
「悪い――?」
遠慮の言葉にピクリと眉を動かした泉は、三橋に引っ張られてやってきた浜田を見た。そして高く頂点の上がった見事なへの字を開くと、念押しするような低い声で、やけにゆっくりと訊ねた。
「浜田。オレの夏大の打率分かってんな?」
気圧されるように浜田が頷く。
泉は暫く見定めるようにじっと目を向けた後、持っていたバットをくるりと放り投げた。
パシンと小気味良い音を立てて、1回転半したヘッドの部分を掴むと、反対側、つまりは自分がさっきまで握っていたグリップの方を、つい、と浜田へ差し出す。
「その代打。言いてえコト、分かってんな?」
そこまで聞くと、何を言われるかときゅっと口元を引き結んで聞いていた浜田はやっと心得た顔で笑い、目の前に差し出されたグリップに手を沿わせてしっかりと指を巻きつけ頷いた。
「分かってる」
「よし。じゃ、行ってこい」
泉は被っていたヘルメットを脱いで内側を見せるように振り上げると、浜田の頭へと、それを押し付けるように被せた。
1年の時には、伸び上がるようにしなくてはいけなかったであろう、その仕草。
180cmに届きはしないまでも、今は苦も無い様子でやってのける泉と、やっと自分の袖を放した三橋を見比べて、何やら感慨深い表情を浮かべた後、浜田は一度マウンドを見据えてバッターボックスへと入っていった。
「おかえりー」
ベンチの端に立っていた水谷がにこやかに出迎えると、「おー」と間延びした声を返した泉はそのまま隣をすり抜けて、奥へと潜り込んでゆく。
そのまま目で追って見ていると、もう試合も終わろうかというのに、泉は腰をかがめてジャグ弄りだすものだから、こんな場面で水分を摂るのかと水谷は首を傾げた。
「泉ー早く来なよ、ピッチ投げるよ?」
呼んでも泉は背中を向けたままだ。
そしてジャグからは、水の滴る音。
「見ないの?」
「んー、オレはいいや」
意外な返事に打席を譲ってムクれたのかと聞けば、「代打立てられんのは不本意だけどな、ムクれたりしねえよ」と笑われて、水谷はますます首を傾げた。
「いいんだよ。分かってっから」
泉は穏やかな目で、ちらりと水谷を一瞥しただけだった。
何が分かってんの? そう言い終えぬ間に水谷の声は鋭い金属音に遮られる。
驚いて振り返る背後からは、
言ったろ?
ボール磨きでも始めそうなのんびりした声で――。
水谷にはそう、聞えた気がした。
泉はグラウンドに背を向けたまま、目蓋の裏に焼き付けて持ち帰ったあの日の夏空に、新たに小さく消える白球の軌跡を一人眩しげに追っていた。
夏/投/列/島/薬/局/
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