*約束1
改稿前テキスト
地区【埼玉】
代表校【西浦高校】
回数
――初出場
第1日・第1試合
明け方、人の体で磨り減った滑らかな廊下へと、窓から朧な青い光が差す頃、民宿の玄関先でカラリと引き戸の空く音が発つ。
音は板張りの床へと継がれ、慎重に階段を軋ませて二階へたどり着くと、その主、は一番前にある襖をそっと引き開けた。すると、暗い部屋の中に溜まっていた沢山の寝息が流れるように畳を這い、足元から廊下へ、途絶えることなく漂い出る。
開会式の時間に合うよう、前日現地入りしたばかりの時には、興奮して一頻り騒いでいた部員達も、こうして靄いだ闇の中に見渡せば、誰一人として正体もなく、上級生も、下級生も、織物の縦糸と横糸が折り重なるように、手足を上へ下へと重ね合って眠っていた。
その中へと足を、腕と、腕と頭の隙間、脚と、脇と布団の隙間というように、体を踏まぬよう注意深く入れると、薄らと浮かぶ人影の間を目標地点まで進んだ浜田はそっと屈みこみ、布団に半分埋もれた鼻を軽く指で摘んだ。
手元では間もなく、すん、すんと呼吸をし損ねる音がして、空気を探すよう頭を揺らしていた塊から、ぽつんと点のような光が現れる。
息苦しさに気付いて誰かがぼんやりと目蓋を上げたのだ。
とたんに、布団を抱え込んだ体が驚いてぎゅっと竦むのを感じた。
浜田が慌てて鼻から離した手を口へ遣って塞ぐ。と、塞いだ効果か、ぎりぎりの所で相手が状況を把握できたのかは知れないが、抑えた手の下からは幸い叫び声が上がることも無く、ただ短く、きゅっと喉の鳴る音が発っせられただけだった。
「泉、ちょっと出れるか?」
逆光で塗り潰された人影を見分けようとするように、大きく目を見開いた泉の口から、手を放して浜田は訊ねる。すると、聞き覚えのある声に安心したのか、泉はまた、とろんと半分まで目蓋を下げて一度布団に顔をこすり付け、それから「まだ眠たいんだ」と主張するよう頭を置いたまま、億劫そうに体を起した。
「んだよ浜田。これじゃ朝練のある時と起きる時間変わんねーじゃん」
泉が眠い目を擦って民宿の階段を降りきると、先に部屋から出ていた浜田は玄関先で待ち構えていた。
外へと、出るつもりなのだろう。
早々と足にスニーカーを履き、今にも引き戸を開けようと落ち着きのない様子で笑顔を浮かべながら、泉を自分の方へと手招く。その足元、三和土の上には、ご丁寧に泉のスニーカーまでが揃えられていた。
開ききらない目じりに涙を溜めて、まだ半分眠った頭で何事かと首を傾げながら、泉は取りあえず促されるまま、上框から片足を浮かせて、スニーカーへと足を差し入れる。
と、唐突に、まだ満足に靴も履ききれないままで浜田に腕を引かれた泉は、転がるように外の道路へと引っ張り出された。
「なんだよ、ワケわかんね――え、――えっ!?」
並べかけた苦情の言葉が反動に負け、頭がガクンと仰け反ったかと思うと、声は途中で一度、ブツリと千切れる。
「何!? だからっ! なにっ!? なんなんだよ!!」
遮光カーテンと引き戸を閉めた玄関先。
狭い軒の間に、泉の泡を食ったような声が再び上がった。声は徐々に、しかし明らかに玄関から遠のいてゆく。
青白く濡れたような朝の空気にそぐわない、その駆けるような声と慌しい足音が狭い私道を右から左へ通り過ぎてしまうと、辺りはまた、しんと寝静まった家々の軒の上を小鳥の声が小さく聞えるだけの一角へと戻り、何事もなかったように静かな佇まいを取り戻して住民の目覚めを待つ続きを始めたのだった。
細い路地をいくつか曲がり、大通りに出た浜田は、泉の腕を掴んだまま、早朝から次々車の行き交う国道を背に、どんどん道を歩いてゆく。
一方で泉は躓くようになりながら、背後の国道と、その上に通る高架の高速道路を、振り返り振り返り引き摺られていた。
泊っていた民宿のある一角はみるみる離れ、工場か何かの塀に隠れて視界からすっかり消え、もう、自分達が出てきた付近の建物は、全く見えなくなってしまっていた。
「こんな時間にどこ行くんだよ」
「うん、ま、ちょっと付き合え」
ちらっと後ろを振り向いた浜田の肩越しには、早くも、昨日百枝と志賀に引率されて降り立った駅の駐輪場が覗いている。
「え……オマエ電車乗る気?走ってるワケないだろ?まだ4時半になっても――」
ダイジョウブ。
泉の言葉を切ってそう言った浜田は、迷い無い足取りで横断歩道を突っ切ると、手前の券売機も無視して改札へと進んでゆく。
片手には既に切符が二枚、しっかりと握り締められていた。
一枚を通した改札に泉を押し込んで、もう一枚を通した隣の改札を通る。
泉は訳が分からずに、改札を通された方向によろよろと足を踏み込み、侵入した方向へと進みかけたが、「泉、どっち行くんだよ。そっちは大阪方面。こっちこっち!」と呼ぶ声と共に、また腕を引かれて神戸・姫路方面と表示された階段を上らされた。
コンクリの細かな階段を、一段飛ばしでプラットホームに上ってみると、水の中にいるように薄青い色をしていた景色は、その青さをすっかり空へ引き上げたように白み、町は本来の色を取り戻して泉の目に飛び込んでくる。
向こう端、駅と同じ高さの遊歩道には緑が茂り、それほど高くはないビルが、ざっと駅の周りを取り囲んでいるようだ。
そして頭上には、『普通高速神戸行』と黒い文字で書かれた行き先表示。
目の前には、丸みを帯びた体に灰水色と薄灰のツートンに塗り分けた、どこか郷愁を誘う外観の車両が扉を開いて待っていた。
浜田は泉を捕らえたまま、進行方向を確認するよう、左右に一巡首を廻していたが、何か見極めたように、決然として先頭車両へ足を踏み入れる。
ちょうどそれを見計らい、車内には出迎えるようなアナウンスが流れた。
『おはようございます。
今日も阪神電車をご利用いただき、まことにありがとうございます
この電車は4時40分発、普通高速神戸行。
尼崎から高速神戸までの各駅に停車致します
発車まで、今しばらくお待ちくださいませ――』
見事に空いた座席には腰掛けず、浜田は運転席越しに線路の先を見ている。
そこまできて、何か思い当たった泉が口を開いた。
「付き合えって――浜田。オマエ、まさか甲子園球場行く気か?」
浜田は泉が訊ねる声に顔を向けたものの、すぐに泉の顔から頭に目をやると、問い掛けには答えなかった。
「すげー寝癖だなあ」と笑いながら、浜田は明後日の方を向いて好き勝手に跳ねていた泉の髪を四方へと掻き回していた。けれど、それくらいでは直らないと知ると、自分の頭を覆っていたタオルを解いて泉の頭に括り始める。
それからやっと、
「見たくね? 球場。誰よりも早く一番最初に」
それはもう、どうにも待ちきれないというような声で言った。
ぽかんと開いた口を閉じる反動のように、目を大きく見開いた泉は、視線を浜田から、浜田が見ていた線路の先へと移してその先にじっと目を凝らす。
夢にまで見たグラウンドはこの線路の先にあるのだ。
改めてそう意識すると、「見てえな」という言葉は、小さいながらも強い意思を持って音を成し、再び顔を見合わせると、お互い、にやっと口の端を上げて笑った。
やがて発車のアナウンスと警告音が流れて扉が閉まり、電車は緩やかに線路へと滑り出す。
左の窓の向こうには視線より僅かに低く、背を向けて歩いてきた高速道路が平行に走り、その向こうには、何本かの煙突が空へと伸びていた。さらに向こう側はどうなっているのか、土地が無くなっているように建物の重なりが少ない、蒼く空の広がる風景があった。
まだ清々しくも薄い色の空を数羽、白い鳥が舞う。
のんびり揺れて走る普通電車はまるで遠足にでもゆくようだ。
どちらも「なんかデカイ鳥が飛んでるぞ。」とか、「車内吊タイガースばっかじゃね?阪神電車ってカンジだよな。」とか言い合って、線路と左右の風景を、一つも漏らさないように目に収めようとしている。
そんな他愛ない、それでも期待と微かな高揚を含んだ会話を運びながら、電車はカタコトと線路を進んでいった。
「阪神ってさ、駅とか沿線、京急にちょっとカンジ似てね?」
「似てねえよ。っていうかオレ京急殆ど乗らねえから、そんなの覚えてねえぞ」
次の駅は驚くほど近く、そのせいか、電車はその後も速度の上がらぬまま進んだ。二人揃って物珍しそうに、広い川の上にホームを渡した武庫川では駅を覗いたまま、出発して通り過ぎきるまで見届けていたけれど、鳴尾を越し、甲子園の駅名が告げられる頃にはどちらも無言で、線路の端に段々と迫るプラットホームの直線をただ黙って見ていた。
何本も渡されて広々とした甲子園のホームに二人、ぽつんと降り立つ。
他に降りる人はなく、電車を待っていた人はすっかり車内に収まって、ツートンカラーの車両がみんな運び出して去ってしまったあとだ。
階段を下りている途中にも、改札が見えるところに来ても。
誰一人として向こうからやってくる気配は無く、駅構内は自動改札の矢印や、灯る蛍光灯が辛うじてこの駅が起きて働いていることを伝えるばかりで、まるで駅員すら居ない無人駅のように静かだった。
ここを出れば――
神妙な顔で、一歩前へと踏み出す。
吸い寄せられるように改札へ。
ところが、改札を潜ろうとした泉の後ろで何か慌しく動いたかと思うと、いきなり後頭部の結び目が掴まれて引き止められた。
踏み出そうとした足が大きく後退って体がセンサーに触れたのか、静かだった駅は改札機のけたたましい警報が鳴り響く。
「――にやってんだオマエは!」
「先に出んなって!切符が落ちたんだよ!」
二重に鳴る警報の中。
やっと拾った切符を改札機に入れようと格闘する浜田の姿に、泉は唖然とその光景を眺めた。あまりのうるさい音に両手はしっかりと耳を覆っている。
すると、警報が中途半端な音を出して途絶えた後を次ぐように、泉の心境をまるっきり正確に映したような呆れ声が聞えてきた。
「ジブンらあかんがな。自動改札で遊んだら危ないで」
見れば無人と思っていた改札の端に、白い半袖に紺色の制帽を被った駅員が小窓から頭を出してこちらを覗き込んでいた。
目立ち始めた白髪を隠すでもなく、日に焼けてた顔はいくらか深くなった皺が笑顔の容に敷かれて、注意をしながら、いくらか面白いものを見るように黒い目をちょっと光らせたふうにしてこちらを眺めているのだ。
エラーを解除されて投入口を開けた改札機から、やっと出てきた浜田がスンマセンと頭を下げると、駅員は「もういいよ」とでもいうように手を揺らしてにやりと笑う。
浜田も泉も、釣られるように揃って顔にごまかし笑いを浮かべながら改札に背を向けた。
正面にはバス停を備え、きれいに舗装された広い道路。
改札の左には、試合の時に使うのであろう臨時の出入り口と券売所が手前に出っ張っていて、その先に、右手にずっと小屋のような売店が、今はどこも口を閉じ、眠ったように並んでいる。その奥には始発駅からずっと隣に伸びていた阪神高速が渡って、その高架の右側奥に、塗り潰したみたいな、何やら巨大な壁が覗いていた。
「浜田、あれ?」
橋桁の近くに僅かに覗くプレートを見ようと、泉が身を屈める。球場名が書かれてあると思しきそれは、すっかりしゃがみ込んでみても障害物が大きすぎて、駅からは到底見えなかった。
「あの道路、なんか邪魔なとこ通ってんな」
「こんな早く、応援に来たんか?」
足元のコンクリに、指を着くほど体を低くした泉が呟くと、背後からまた声を掛けられた。
先ほどの駅員だ。
「オレはね、コイツは出ますよ。試合」
浜田は立ち上がった泉の肩を掴むと、駅員の方に押しやりながら返事を返す。
それはどこか、少し得意そうにも誇らしげにも聞えて、泉の耳にくすぐったく届いた。
「今日試合?」
「第1試合っす」
「ああ、西浦高校。初出場や」
駅員から思いがけず学校名を言い当てられて、揃って目を向くと、「自分ら今日の相手関西の高校やろ?そら、喋ったらどっちかすぐわかるで」。そう、彼は朗らかに笑ったものだから、ああ……、と浜田は頷いた。
駅員はイントネーションで学校を見分けたのだった。
「おじさんは? 試合みれんの?」
「うん、ここのちーこいテレビで見るで」
「じゃあ――」
じゃあ打席にさ、コイツ先攻で1番最初に立つから見ててやって――
「1番? へえ、よう打つ子なんやな。がんばりや」
呆けたように駅員と浜田の会話を聞いていた泉が、弾かれたように深々と頭を下げると、それを合図のように浜田も頭を下げる。
二人は手を振る駅員に別れを告げて駅を後にした。
何十羽もの鳩。それに混じって尼崎を出たときに見た白い鳥が、足を踏み出せば路上からわっと飛び立って行く先をあける。
羽ばたきは夏空に広く響いた後、吸い込まれるよう消えていった。
「さっき電車で見えてたでかい鳥ってカモメじゃね?」
「カモメ?」
「此処って海に近いんだよ」
浜田はすでに遠く羽ばたく白い翼を見送りながら言う。
泉はその説明に、ふうんとだけ、何気なく返していた。
一歩一歩、進むごとにアスファルトを踏む足と心臓の音が耳のすぐ傍で鳴るように大きく聞え、目線の高さにあった高架が徐々に頭上高くなって二人の上に影を重く落とす。
平衡感覚が狂うくらい広い橋脚の横を通って高速の下を潜ると、駅から僅かに見えていた看板は、やっと姿を現しはじめた。
保護柵の隙間から覗いている姿ながらも真四角のプレートに一文字ずつ、歩みを進めるたびに道路の下から独特の尊さを纏って次々に現れる。
すべての文字が見える頃、泉は知らず、浜田の腕を掴んでいた。
「――来た」
呟き、そびえるような球場の前に立つ。
「ビビる?」
「ビビんねえ。気合、入った」
壁の下にはまだ葉の若い蔦が整然と並んで植えられていた。
方々の高校で大切に育てられ戻された株は、我が家へ帰って一年が過ぎてもまだまだ小さくて、以前のように球場の壁を覆うこともできはしない。
けれど、それらは幼い体を精一杯に天へ向けて伸ばしていた。
ここから――
数十倍もある壁の頂上まで這い上がってやる。
球場から視線を傍に移した浜田を、泉は真直ぐに見返した。
「打てよ。――泉」
任せろと、真摯な声は力を持って球場の壁を打つ。
迷い無い心に重圧は心地良い。
今、夏が始まる――
夏/投/列/島/薬/局/
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