*あかね色の空にとける
お題「笑顔」改題
※タイトルは水上勉の「櫻守」文中より拝借
その日は珍しく、空に色んなものが飛び交っていた。
週末に向けてD.I.Yストアの大売出しだとか、知事選だとか、地域振興委員会の催しだとか、それから後、報道のためか企業調査かは知れないけれど、所々淡く白んだ水色の空に、無粋な白や銀の塊が右往左往としている。そんな日だった。
練習試合は相手校の到着が早く、1時を迎える前に始まっていた。
くちくなったまま腹をこなしきれていない水谷は、左翼側の守備位置に片膝を緩めて立ち、グラブで鳩尾の下を時折叩いている。
水谷の背後に見えるフェンスには、小鳥が数羽上に止まって何かしきりに足元を啄んでいて、グラウンドの向こう側に隠れた畑からは、田島の祖父と、母のものらしい話し声が聞える。空の雑多な浮遊物を除けはうららかな午後。
表、裏、表、また裏と早いタイミングで回を次々重ねて。
どちらにも点が入らなかった最終回。意外な人物にちょっとした事故が起きた。
『ちょっとした』とは言っても、軽く済んだ結果を確認して初めて『ちょっと』と表現できただけで、事故の起きた瞬間その場は一瞬騒然となった。
誰も走者のいない中で最終打者が打った球は、センターの守備位置へと真直ぐに飛んだ。捕球のために動く必要もなくグラブが高い位置に上がる。
西浦の選手も、相手校の選手も、誰もが「今日は引き分けだった」という表情で落下する白球を緊張感のない目で追っていた。
そんな中、阿部が小さく走った何かを視界に捉えられたのは、一番遠くに離れていたために、白球と外野手が早くから視点を動かさずに収められていたからだろう。
ユニフォームの右肩の辺りに現れたそれは振れるような動きをしながら、さっと左上、伸ばされた腕のほうに駆け上って消えた。
何かが反射して落とした光の欠片だと判別できたのと、打球が泉のグラブすぐ近くまで落ちてきたのはほとんど同時で、次の瞬間周囲からあっと声が上がり、誰もが同じ方向に足をかえた。
グラブが変に動いて打球を弾いたかと思うと、多少勢いを殺されただけのボールはそのまま顔に直撃し、泉が体中の間接を曲げるように、ぐしゃり、と地面に潰れてしまったからだ。
まるで操り玩具の糸を全て切ったみたいな倒れ方。
白々と乾いたグラウンドの上に仰向いた帽子が頼りなく落ちて、そのすぐ近くで横倒しに膝を崩して折ったまま体を丸めている泉に、慌てた様子の水谷と巣山が駆け寄っていく。
ホームからでは遠すぎて、阿部は立って一歩踏み出したところで足を止め、駆け出したい衝動を押さえながら、巣山が小さく丸まった泉の傍らにしゃがみ込むのを食い入るように見ていた。
「泉君? アイスノンで大丈夫って言ってたから病院には行ってないよ」
荷台のロープを解いていた篠岡は泉の所在を探すように視線を巡らせ、荷下ろしを手伝っていた水谷や栄口と顔を見合わせる。
「あーっと泉? 確か水道の方行っ……え? 何?」
裏の方を指差す水谷を小突いた栄口が、差された方へ歩みはじめる阿部を引き止めようとした。けれど伸ばした手はひらひらと宙を仰いで間に合わず、「今行かない方がいいぞー」という声も阿部のところまでは辿り着くことはできなかった。
「あれ、なんかオレ、ダメ?」
水谷がどぎまぎとして篠岡を振り返ると、自転車の荷台に手を掛けたままやり取りを見ていた篠岡は、さあと首をかしげて栄口を見る。
「どうして行かない方が良いの?」
「うーん、ちょっと落ちてたみたいだったからさ」
「泉君が? 今日ので?」
篠岡が腑に落ちない声を出して校舎の角を振り返った。時折少しせっかちに動く阿部の姿は既になく、足音も聞えない。
「だってあれ、反射した光が目に入って手元がぶれたんでしょ?」
落ち込むところじゃないよね?
水谷も同意した風で頷いた。
「まあ、手を動かさなかったらちゃんと捕れてたとか、避けきれずにみんなの前で倒れたのが恥ずかしかったとか、そんなところだとは思うけどさ」
すぐに浮上できそうだったから、急用って訳じゃなければ今は触んない方がって思ってさ。
栄口は困った顔で笑った。
そうだったろうか。水谷はアイスノンを頬に当てた膨れっ面の泉を思い浮かべながら眉根を寄せて考え、篠岡は真逆の納得した表情を浮かべた後、水谷の鈍さに呆れた顔の栄口を見て口元を緩めた。
「後さ、戻ってきたときにこの辺で、いかにも泉を構っちゃいそうな人見かけたのもさ、ちょっとね」
「いかにも? ――あ、浜田さん?」
少し間を置いて、水谷と篠岡が同時に声を上げる。
他に候補がないくらいに分かりやすい。
「そう、軽く凹んだぐらいで二、三人に様子見に来られたら鬱陶しくない? 田島と三橋が二人で一人みたいに連れ立って、『大丈夫ー?』なら良いけどさ。オレが泉なら、今はちょっとカンベンって感じなんだよね」
栄口はやれやれといった風に、地面に落ちたロープを拾うと、それをせっせと丸めだした。
この時期の夕方は、暖かさと涼しさが交互に感じるような微妙な気温で、阿部のユニフォームに染みた汗は風に冷やされ、体に触れる所々に冷たい湿り気を与えた。
ざくざくと砂を踏む。
他に音もないためやけに大きく届く自分の足音を聞きながら、植え込みの間を抜けて建造物の向こう側へと足を向ける。
戸外通路を越えて少し先を曲がれば、傾斜の手前に設置された、水谷の言う場所に出た。
部活や体育の授業を受けた生徒が利用するために屋外にいくつか設けられた水飲み場のうち、ここは校舎の本当に端の方にあった。運動部員に言わせれば穴場といったところか。普段からあまり人気の無い場所だ。
設置された場所のすぐ先からは、敷地の外に向かって少し高さのある斜面となっているため見晴らしが良い。眼下というほどの高さはなかったけれど、近くに遮蔽物もなく見渡せる町並みと橙色の空が、心にまで届くほど目に染みた。
すぐ脇の林にねぐらを求めた鳥達がチキチキと短く呼び合い、黒い雲のように群れて四方から集まってくる。
影から一歩踏み出すと、少し高い水のみ場のコンクリの上には足を組み、片腕を着いて腰を下ろす人影があった。その横顔が気配に気付いて阿部の方を向く。
夕焼けの空の色に染まってしまうのではないかと思える薄い髪の色は、探していた泉のそれではなかった。
浜田だ。
応援団の練習をやっていたのか、学生服の黒いズボンの上に白いTシャツ姿で、袖から伸びた腕の先には白い手袋を履いている。
歩みを止められずに二、三歩。移動して角度の変わった水飲み場の壁面側が視野に入ると、ぶらりと下げられた浜田の足の向こうに、小さく縮まった黒い塊が見えた。
腕のところに援団の赤い腕章を付けたままの学ラン。黒い生地の端からは対照的な色で、 胡坐を掻いた白いユニフォームの膝頭だけがはみ出ていた。
頭からすっぽりと被された上着は端が地面に引き摺れて、逆光で一層黒い影を作っている。
目を凝らせば、口元と、頬を冷やすために上げている片手の指が二本だけ、辛うじて覗いていた。
泉。
と、声を掛け難い空気が喉に蓋をして何も言えなくて、阿部の目は浜田が手にして弄んでいた帽子の、オレンジ色の縫い取りを仕方なく追いはじめる。すると、その視線を捕らえたことを知ったように、浜田が帽子を持ったまま、膝から手を浮かせた。
釣られて視線を上げると、目が合う。
浜田は穏やかな目で阿部を見ながら、口の端を柔らかく上げた。
「今は来ない方が良いよ」という顔だ。
つい眉を顰めてしまいそうになるのを、顔を強張らせて圧し止めると、阿部は何も言わずに了解を匂わせ踵を返した。もと来た道を戻るために砂を踏む音は小さく、ゆっくりと這い登って耳に届く。音は耳から体の中を滑り落ち、ざらりと細かく心の中に紛れ込んだ。
後味の悪さを感じ、戸外通路の手前で足先を捌いて地面を掻く。規則的な砂の音を乱せば先ほどの光景が脳裏に浮かんだ。
この感情は嫉妬というのだろうか。
日暮れ近く色を薄めた校舎の裏で、冷静に、阿部は今自分の心を占めている感情の名を探した。
抱いてもどうしようもない相手に向けられた感情。
正直、泉に対して、自分と同じ想いを秘めている相手ならまだ良い。
心の内はどれほど乱されても、今より随分と明快で、そのつもりがあればいつにでも決着を迎えられる関係は不安な反面返って楽に感じるものだ。
泉に全く違った想いを持つ浜田へ、その感情を向けることはその倍以上もきつくてやりきれない。
交錯しない心情を持つ浜田に、阿部は張り合うことも譲ることも、出し抜くこともできない。
見えない壁を張られた校舎の外れには、一歩引き返すことすら躊躇われた。
浜田という存在。
それは阿部が全てを手に入れたいと思う泉の、不可侵領域の一部に棲みついている。そう思うと、長い氷柱がすっと胸から足元まで滑り込み、そのまま体を突き抜けて、地面に縫い付けられるような感覚に襲われた。
そして次にやって来る、氷柱を辿りながら体内の水分を吸って、泥になった砂がずるりとそこら中を這い回るような気持ちの揺れを誘う感じ。
持て余しそうな感覚を振り払おうとして阿部は頭を振ると、足早に部室へと道を急いだ。この感情の名前は知らない。
知りたくない。
夏/投/列/島/薬/局/
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