*依頼と報酬
お題。改題していません。
明けて元旦。
昔は神妙な面持ちで着いた新年初めの席。
それも今では、目の前に置かれた祝い箸の袋を見下ろしながら、父の挨拶を半分寝ぼけた頭で聞き流すようになってしまった。
テレビは古臭い琴の音に乗せて、使い回しじゃないかと思うくらい、アナウンサーが去年とまったく同じ祝賀の言葉を述べている。
「あけましておめでとうございます」
家族が顔をあわせ、面と向かって挨拶を交わすのも、今日だけはと、半ば強制的に振舞われる屠蘇がそのまま顔に出てしまうこともいただけなければ、年の小さな従兄弟用に買った残りのぽち袋で渡されるお年玉が、これまたなんとも言えない。
泉にとって元旦という日はいつの頃からか、一年を通して最も苦手な日だ。
小学生以下の従兄弟は総勢四人。
五枚入りぽち袋の残り一枚。半端物の消費先は、ちびっ子グループのすぐ上にあたる従兄弟には充てられず、高校一年を終えようとしている自分へと、いまだにやってくる。
可愛らしいたまご色の地に、ウサギ柄の袋が見えたときには、初春の晴れがましい空気もなにも、ただ、情けなくて涙が出そうになった。
ご丁寧なことに袋の右上には、『孝介殿』とまで、黒々とした筆ペンの字で書いてある。
それを素早くポケットの中に仕舞い、食事のバランスをうるさく言われない程度に煮しめを摘んだ後はきんとんと雑煮で腹を膨らませると、末っ子の仕事である賀状の仕分けに取り掛かる。それを終えてやっと、泉は毎年、家の元日行事から開放されるのだった。
一通りの義務を終えてみると、生薬の匂いでもしてきそうな家の中はどうにも気詰まりに感じた。毎年嗅ぐ屠蘇散のお陰で、正月には家中からあの匂いが滲んでくるような気がする。
泉は上着の上からマフラーをぐるぐる巻き、季節外れの桜みたいな色に染まった頬を隠すと、玄関から外へと脱出を試みた。
窮屈な空気から逃れようと自転車に手をかけたところで、背後から飲酒運転を窘める母の声がする。
仕方ない。
そう、今日ばかりは人けのない住宅街へと徒歩で出た。
行き先は特に思いつかない。
折角だから神社に初詣でもしようかと、近所の稲荷へ一度足を向けたものの、今しがた、年始参りのついでに車で三十分ほどの親戚の家に行く相談をしていた両親と鉢合わせないために、踵を返して別の道に入った。
頭上高くには一つだけ、ぽつんと赤い凧が浮かんでいた。
今日の空は雲がごく薄く張ったように、甘く暈けた色をしている。白んだ水色の中に泳ぐ凧は、爪の先ほどもない。けれど、紅梅の花びらを浮かべたように鮮やかな赤は、大人しげな色に塗られた空の中で目を引いた。
悠々と舞う凧を目で追いながら、細い道路をジグザグに。
泉は凧を目指し、糸の手繰り手が居そうな方角へと歩みを進めていく。
緩やかな傾斜を下って数十分。
出掛けから屠蘇に体を温められていたから、歩いている間に、もう、暑いくらいになっていたものの、相変わらず、いかにも燃料を仕込みましたと云わんばかりに頬も首元も熱を含んだままで、マフラーを解いて歩くわけにもいかない。
だから風を作るように下り坂へ、下り坂へ。
体を投げ出すように歩いていくと、道はやがて低い土手にぶつかり途切れてしまった。
先行く道を探せば、付近の住民も不便を感じるのか、横手の狭い竹やぶの脇に下の歩道へ降りる段が拵えてある。
景色はずいぶんと見慣れない。
友達の家のない方角だから多分、泉の通っていた小学校とも中学校とも、校区が違うのだろう。先に目的地もない方角へ向け、こんなところまで足を伸ばしたことは今まで一度もなかった。
なおも土手を下りて泉は道を行く。
するとマンションの影からは、右手にちょっとした緑地公園が覗きはじめた。
奥には朱色の小さな鳥居が見えている。
当初の目的地を思い出してもう一つ傾斜に現れた丸い木切れの段を降り、公園の方角へ、もう少し足を伸ばすことにした。
先ほどから頭上を泳いでいる凧の持ち主はあの中だろうか。平地に降りたお陰で真上の天を見上げながら公園の外周を道行くと、緑地の植え込みだと思っていた緑の片隅がゆっくりと群れから離れ始める。
小さな島になって姿を現した緑は鎮守の森のようだ。公園の敷地よりは外側にあり、鳥居の後ろにこんもりと茂っている。近づくほど、周囲には参拝に訪れる人の姿がちらほらと見えはじめた。
それなりに人けのある場所のようだ。
砂が風に吹き広げられて白んだ道を端まで行くと、手前の木々が視界から退き、ようやく神社の全貌が現れた。
石畳の参道の途中に狭い用水路が流れ、縁には点々と、深い緑に灰をまぶした松や糸檜葉が植えられている。
趣のある一角に近づいて参道の木橋を渡ると、眼前の澱みがすいと抜けるよう、鳥居の向こうへ続く視界が開いた。
鬱葱とした中にはすぐ右手に、小さな社務所と手水舎が設えてあり、その奥、境内に上がる糸のような石段では、往き帰りの数人がすれ違えずに、ちょっとした混雑が起きている。
やり過ごしてから上ろうかと見回した段の上の方で、見覚えのある姿が掠めたように思うと、
「泉?」
頭上から、泉は耳慣れた声で呼ばれた。
もう一度、視線を戻し仰ぐ。はらはらと降りてくる人の中には、よくよく見知った顔があった。
「阿部じゃん。ここ、オマエん家の近所?」
「おお、チャリだと近いからな。そっちこそ、こんなところまで参りに来るのか?」
「いや、適当に歩いてたら辿り着いた」
帰りの人が降りきる隙間に足を掛け、空いた石段を上っていくと、「歩き?」と怪訝な声を出した阿部の後ろに素朴な造りの社が現れた。
見渡した境内は猫の額ほどしか土地のない、小ぢんまりとした構えで、先ほど石段で行き詰っていた参拝客が、詣で終えては早々と来た道を引き返してくる。
周囲はぐるりを森の木々に取り巻かれ、並ぶような場所には住居がない。参拝客が絶えると聞えるのは風に木々が揺れる音と鳥の声ばかりで、すぐにも森閑とした神仏の住処らしい佇まいを取り戻した。
「人、すぐにいなくなるんだな。ここ」
「そろそろ飯の仕度に帰る時間なんだろ。オマエ、顔赤くないか?」
鼻の上まで覆うほどの防寒をした泉に、それほど寒いだろうかという目を向けた阿部は、訝しい顔で巻き上げられているマフラーに手を掛け引き下げた。
ざっくりと編まれた分厚い編地の中から現れた頬は予想通り、淡く染まった色をしている。
「やめろって。隠してんだから」
面白そうに目を細めた阿部の反応が気に食わないらしく、泉は人気もないのにひしひそと文句を零して肩を竦めた。編地に顔を潜らせると、頬の赤味に対する追求を避けるために賽銭箱へ逃げていく。
「酔ってんの?」
石畳へ斜交いに足を踏み入れたためか、泉の足取りはゆがみ、いつもより心なしと動作が弛んで見えた。
歩きながら財布の中を探って出した賽銭が、ぱらりと石を撒くような音を立てて箱の底へ落ちていのを追って、
「酔ってねえって。顔に出やすいだけだ」
泉は言い訳しながら二つ、かしわ手を打つ。そそくさと拝む格好をして話を切ったものの、手を合わせてしばらくすると、一言訊ねたきり大人しくしている阿部は何をしているのかと、閉じた目蓋を透かしてちらりと横を見た。
隣では阿部もまた賽銭箱の前に立ち、なにやら掌を合わせている。『拝む振り』ではなくて、本当になにやら拝んでいるようだ。
「オマエはもう拝み終わってたんじゃねえの?」
とりあえず邪魔にならないよう、阿部が手を下げるまで待って声を掛けた泉は、
「さっきは甲子園。で、今は別のことだ」
そう聞くなり眉を顰めた。
「阿部。願い事は言っちまうと叶わねえよ」
「マジで!?」
「ま、神頼みなんかしないで百パーセント自力で行きゃいいってコトだから、構わねえといや、構わねえけどさ」
「……心しとく」
マフラーの上に覗く目を細め、泉は肩を揺らして笑った。阿部は決まり悪そうにこめかみを掻いている。
「大体さ、一々言わなくても、今ごろ全員阿部と似たような頼みごとしてるだろうよ」
「言った傍からオマエがバラしてどうすんだよ」
「だーから、自力で成就させんだよ」
新年初日から気合の入る話だ。今年も去年を上回る練習塗れの一年になるだろうと、練習の再開を前に、早くも気持ちを改めさせられた。
「そういやオマエさ、帰りは?」
ここへ足を運んだ中では長めであろう参拝を終えると、阿部は泉に今後を訊ねた。
なんとなくこんな所まで歩いてきたと泉は先ほど言ったけれど、どう道を選んで来たにしても、ここから泉の自宅まで、けっこうな距離があるからだ。
おまけに酒気帯びときた。
「帰り? ああ、さっき来た道戻るぜ。公園とこから土手上がって、坂上がって……て……」
眼下の公園を泉が調子よく指差したまではよかったのだけれど、土手、坂、の辺りから、指先が迷うよう左右に泳ぎだした。
それが往きで目印になっていた凧を捕らえて天を向く。
泉のほとんど隠れた顔が、まずいなあ、という表情になった。帰りの道がはっきりしないのだろう。
高いところでは、上空の風に吹き流されないよう挙げ手が地上で堪えているのか、紅梅色の小さな切れ端が風車のように回っている。釣られるように、くるり、くるりと指先で動きを追いながら、泉は忘れてしまった道筋を思い出そうとするためか、じっと天を睨んだ。
「覚えてないんだろ。乗っけてってやるよ」
「いい。上って行けばそのうち分かる所まで出れっから」
阿部は屋根の分だけ順に高くなる住宅街の傾斜と、空に地図を書き始めた人差し指を見比べた。
頑固に言い切った声の確かさとは裏腹に、空に指追いしている道順は本格的な迷走をはじめている。そのうち、というのが一体どれくらいの時間を差すのか不安になるような有様だ。
「掛かんじゃね? 帰りの方が」
「やー、大丈夫だろ?」
「乗ってた方が早ええよ」
「やー……うーん……」
当の本人も少し遅れて自分の事情が飲み込めたのか、最初は威勢のよかった返事が段々と先細りを見せ始めた。
道を描くことに限界を感じた指先は一足早く、萎れるように丸まっている。
「普段は世話焼く側なんだ、たまには世話になれば?」
珍しく、煮え切らない顔で口ごもる泉を残して石段を下り始めると、半分ほど降りた頃にやっと、
「……よろしく」
もぞもぞ、と、小さな声がした。
振り返ると泉は最上段までやって来て眉間にしわを寄せ、糸のように目を細くして立っている。
数段降りた阿部が鳥居の近くでもう一度振り返ってやっと、自分自身、その場に立ち止まったままでいることを変に感じたのか、石段を一歩一歩、ゆっくりした足取りで降りはじめた。
人に手を焼くのは厭わないけれど、人に手を貸されるのはどうも気が進まないといった顔つきだ。
「泉、顔見せてみ」
「なんで?」
追いついてくるのを待ち、手で首元を掻き分けるしぐさをして見せると、泉はしばらく阿部の顔をじっと見据えてから用心深い調子で訊ね返した。
「醒めてきたんじゃねえの?」
「ああ――」
言われたとおり素直に首元を緩めると、阿部は満足そうに口元を引いた。くるりと背を向け、自転車置き場まで続く砂利道を歩き始める。
「ちょ……、コラ! なんだ今の笑いは!」
先を行く背中へ泉が投げかけると、
「まいどあり」
振り返った阿部はニヤニヤと自分の頬を差して笑った。
そしてからかうような笑みに反撃しようと泉が慌ててマフラーを引き上げる間に、「早く来い」と急かして砂利道をどんどん進んでいく。
用水路の向こう側。
木立の間には笑いを噛み締め歩く阿部の後を、笑われたことに文句を投げながら追う泉の姿が見え隠れする。
巻きなおしたマフラーの隙間から、色一重、重ねた薄紅の頬を覗かせて。
夏/投/列/島/薬/局/
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