*knock-knock-knock
「泉、シガポのとこに付き合えるか?」
10月。空の水色に透けたうす曇の穏やかな放課後。廊下の窓から阿部が顔を出すと、9組の野球部員達はいつものように教室の真ん中で固まっていた。
部室へ行くために、焦って鞄の中をごそごそと弄っている三橋。
田島は机の上で胡坐を掻き、なにやらしきりに話しかけている。
向かい側では話に合わせて相槌を打ちながら、手元の雑誌に目を落とす浜田。
その隣、阿部のいる廊下に背を向けて、仰向くように振り返った一人。
長く伸びた前髪は頬に掛かるほどで、それが顎を上げた輪郭にするりと滑って重力に倣い沿い落ちると、よくよく見慣れた顔が覗いた。
名前を呼ばれた当の泉だ。
「おお、良いけど何?」
「今日やる練習で説明したい事があるんだと。職員会議でグラウンド出るのが遅くなるらしい」
日の光が眩しいみたいに目を細め、阿部の声を一巡頭の中で繰り返せるだけの間を置くと、すぐに泉は眉を上げて心得た顔になった。机に下げてあったスポーツバッグを肩に引っ掛け席を立つ。
崩れた並びの机やクラスメイトが複雑な障害になっている教室から、泉は魚が小石の隙間を縫うような身軽さでするりと抜け出してきたが、
「お待た、せ、と、あ!」
目をくるりと見開いてしまったという顔になると、阿部の目前に手を広げた。
バッターボックスで足場を慣らすときのように、ぴんと張った腕と掌が、阿部の鼻先には突きつけられている。
「浜田ぁ、今日帰り寄るから鍋返して」
返事の代わりに人垣の隙間からは、はらはら揺れる浜田の手が覗いた。その「了解した」という合図を確認すると、
じゃ、行こうか? 泉は数学準備室へと阿部を促した。
廊下に並んだ教室のドアからは生徒がまばらに吐き出され、呼吸をするようにまた別の生徒が吸い込まれていく。
呼び出した阿部が泉の半歩後ろをついて歩くと、その肩越しからは下校していく同級生達の後姿が、ちらちらと視界を横切った。
「鍋?」
「オレん家と浜田んとこ近いだろ? アイツ親元離れてるからさ、親がよく「浜田先輩に」って余分に飯作んだよ」
『浜田先輩』
その呼び方で阿部は合点がいった。言われてみれば浜田と泉とは、中学で同じ部に所属していた間柄で、小学校も同じだと聞いたことがある。
中学より校区の狭い小学校が同じだったのだから、行動範囲の狭い当時は知れないけれど、この年になれば、ごく近所にお互いの家があるのだろうと容易く想像できた。
「ああ、小学校一緒って言ってた?」
「まあ、一緒ってってもさ、野球部入るまでは顔見かけるくらいで話したことなかったし」
視界に阿部を納められる程度首を傾げて振り返り、泉が笑った。
中学から泉と面識があり、現在は援団として父母会とやり取りがある浜田のことだ。応援に来た泉の母親の耳に、浜田の近況が入ったのだろう。息子と高々1歳しか違わないながら自活を余儀なくされる同級生に、あれこれ世話を焼きたがるのもよく分かった。
桐青戦の時に、スタンドで三橋の母親と親しげに話していた姿が阿部の記憶にも新しい。
「なあ、話し変えるけど、オマエのクラス主将いるじゃん。花井のヤツは?」
「ああ」
承諾しては出てきたものの、泉は自分が呼び出された人選を不思議に思ったようだ。
ちょうど通りかかった踊り場の窓から、阿部が質問の答えを見つけて足を止める。向けた視線の先を泉が追うと、裏庭の隅に設えられた焼却炉に、半分頭を突っ込む花井の姿が見えた。
何か失せものを探しているみたいだ。花井の後ろには同じ当番らしい女子が二人いて、竹箒を手に後ろから伸び上がって中を覗き込み、あれこれ指図しているように見える。花井はタオルを巻いた頭を右へ左へと廻し、それに倣って動く足元が小さく砂埃を立てていた。
「じゃ、水谷も?」
今度はどこかを指し示すわけでもなく、阿部は少し眉を寄せて泉を見た。
試合中にはなかなかの策略家で、相手チームに腹の底を覗かせない西浦高校野球部の正捕手は、普段は然程に表情を隠すこともしない。それどころか見慣れると、気持が読み取りやすい方だし行動も、泉が呆れてしまうくらい分かりやすかった。
「うわ、水谷信用ねえ」
「あいつは間違って聞き取りそうで怖えんだよ」
にっと口の端を曲げて笑う泉に向け、阿部は渋面を作って愚痴た。
阿部は自分とテンポの違う水谷や、田島には特に感情が露わだ。その筆頭が三橋。前の二人とは違って投手と捕手という関係故、阿部と三橋の間では、時々、どちらが振り回しているのか分からないやり取りが繰り広げられていた。
「勘狂うんだろ。田島とか三橋とかと一緒で」
同じクラスの余裕か順応力の違いなのか、達観した口を利く泉に、阿部は感心した風な顔をした。存外よく見られているものだ。
「三橋か、9組はいつも行動一緒にしてんのか?」
「まあ大抵は」
「何喋ってんの?」
「――オマエ前もそれ聞いたな」
食物ねえ時は寝てる。
泉は前に言った返事をそのまま繰り返した。
細かく踊り場の付けられた階段を下り数学準備室に行けば、目的の志賀が席にいない。
向かいで小テストの採点中だった別の教師からすぐ戻るだろうと言われた二人は、教材や書類の山の隙間に半分埋もれるようにして、その帰りを待った。
「後、練習の時の事とか、スポーツニュースの事とか」
「は?」
「さっきのやつ、クラスにいる時の話題」
壁のようにどっしり詰まれた書類の隙間で、泉は、まだ考えながらという様子で答えた。
「阿部は何? 三橋と雑談したいわけ?」
「いや、雑談つーか」
「自分が思うようにコミュニケーションが取れねえって?」
「――ああ、そんなとこ」
「オマエ、三橋にはフツウにエラソウだからな」
声が大きいとか、すぐ怒るとか、他の部員から受けたものと同じ類の指摘だけれど、泉の言葉の選び方は、傍からどう見えているかが理解できるもので少々堪える。
阿部がはやれやれと嘆息した。
そう振舞っているつもりは毛頭無いけれど、『エラソウ』という表現は、的確なのだろうと思えるものがある。9組のメンバーとして普段何事もなくやり取りできている泉だけあって、指している言葉の意味が受取りやすい。
これが多少同じようなことを考えてしまう花井であれば、もっと阿部寄りの返事を返してくる。
「偉そうって」
がらりと音を立て、準備室の扉が開く。
二人は志賀の姿を探した。けれども引き扉の溝を跨いで入ってきたのは、早々に着替えを終えた篠岡だった。すぐに知った顔を見つけてぱっと笑顔になると、小さく手を振ってくる。
軽く手を上げて返す間に、篠岡は挨拶の返事を待たず行動を開始して、最短距離で冷蔵庫までたどり着いたかと思えば流れるように慣れた手つきで冷凍庫を開けている。
「ビビってんの、やっぱそれか? つもりはねえけど」
「気にするヤツだな」
「だってアイツ、いまだにオレのメールだけ返信遅えぞ」
「――そんなもん測るな、キメぇ」
「キ……」
ジャグの中からガラガラと氷の音をさせ、準備室での支度を終えた篠岡が出ていく姿を泉は目で追う。途中でこちらを向いたから「手伝おうか」と身振りすると、篠岡は「まかせておけ」とばかり、頼もしい笑顔を作って颯爽と行ってしまった。
「遅えなー、シガポ」
「キメえ?」
存分落ちた声に、泉は多少取り繕うような表情を作ったが、
「キメぇよ」
同情して取り消してくれるわけではなかった。
ようやく志賀の姿が引き戸から現れ、待っていた二人に気付くと慌てて席まで戻ってくれた。10分くらいトレーニングの説明を受けてようやく準備室を後にする。
放課後に用の無い生徒は大方学舎の外に出てしまったのか、廊下は人影もまばらになっていた。
「阿部は細っけーこと気にしすぎんだよ」
脱靴場。9組の靴箱の前で阿部が待っていると、ぐっと曲げた背中の下からくぐもった声がする。続きの言葉を待てば、靴を履き終えて、機敏な動作で泉が上体を起した。
「フツーに野球の事話してりゃいいだろ。取って付けたみたいな別の話題振るほうが不自然だ」
「オレはその『別の話振る』事もキメぇとか言われるのか?」
根に持つねえ、そう言って泉が呆れ顔になった。
「それが自然で一番合ってるっての」
「普通にしてると三橋は、いまだに緊張して縮こまりやがる事があんだよ」
「それだけ三橋の中でオマエは絶対的にウエイト大きいんだろ? だいたい、一々気にしなくてもオマエら前ほどには食い違いしなくなってんじゃん」
阿部はまじまじと泉を見た。
これにはどう言えば良いか。
三橋から認められている事や絶対の信頼をされていることはもちろん知っているし、バッテリ間の信頼関係については、監督からも言を受けたことがある。
百枝や三橋の行動や言葉から受取るほど、泉のそれは明快な言葉として表現できない。
けれど、対面した関係ではなく改めて他の、自分と似た位置にいる人間から言われると、受ける印象はどこか違った。
投げられた口調は多少突き放したよう聞えたものなのに、心に添え木の触れるような感覚を伴う。
「まんまでいいんじゃね?」
スニーカーの中に踵を収めるため、泉はつま先で地面を叩いている。
「オレらの目もあるし、度が過ぎれば止めてやるよ」
虚を突かれたみたいに靴箱の前に突っ立った阿部の目前をすっと通り越し、泉は薄灰の、校舎の影から出て行った。
嫋やかな陽射しに一瞬視界から薄らいだ泉の背中。
それを一拍遅れて追う。
柔らかな空の色が目前に広がった。
夏/投/列/島/薬/局/
INFORMATION
MEMO
TEXT
BOOKMARK
RESET