*空転絶倒
お題「いじめっ子」改題
「阿部ー! 悪いけど現国貸してくんね?」
栄口も呼んで、主将、副将揃って打ち合わせている真っ最中。教室を一つ挟んだ奥のクラスからやってきた泉の声が聞えた。
振り返ればちょっと決まり悪そうに笑いながら、廊下の窓に両手を付いて身を乗り出している。
借りる相手を決めていたのか、ちょうど阿部の席のある場所だ。
話を止めて振り返った阿部は思わず口の端が上がるのを堪えた。大抵の人間は好意を向けた相手に頼られると嬉しい。
阿部も多聞に漏れずと言ったところ。
「泉? 現国の教科書ならオレ貸したげるよー?」
返事に少しの間が空いた隙に、阿部とは席が近く一人だけ爪弾きされてむくれていた水谷が、思いがけないチームメイトの訪問に嬉しそうに声を掛けた。
誰か来た! なんかもう一人じゃない気がする。今の水谷はちょうどそんな顔だ。
「やだね」
それが率直な一言を浴びて、水谷はまた頬を膨らませると口を突き出した。
一方で水谷に「オマエはどうして余計な事を言うんだ」と目つきを険しくした阿部の機嫌は、それを見ていよいよ右肩上がりの様相をみせている。
「なんでよ」
「やだよ、オマエの教科書って端にパラパラマンガ描いてんだろ? 消しとかないと、この前借りた浜田が授業中に見つかって笑い者になってたぜ?」
「マジで!?」
水谷が教科書を捲りながら消しゴムを手探りする。
泉は笑ってそれを見ていると、席から離れていた阿部に、机の中にあるから勝手に抜いていいと了承された。
片手で拝んで中を探る。
水谷の机の中は何やらオモチャめいたものが適当に突っ込まれているから崩れないよう覗き込んで漁らなくてはいけないけれど、その辺り、阿部は無駄な持ち物がなくて整然としているから躊躇いもなく手を差し入れられた。
目的の茶色い表紙を見つけて引き出す。と、その下から、阿部の持ち物らしからぬ淡いグリーンの封筒が目に入る。
型押しされた四つ葉のクローバーは葉の一枚だけに銀色の箔が乗せられたデザインで、見るからに女性物の控えめな封筒。
何事か思い当たったように、へえ、と泉が目を輝かせた。
「教科書ありがとな」
泉は律儀に現国の時間が終わるとすぐ、教科書を返却するため再び7組の廊下までやってきた。
いつになく機嫌の良さそうな様子で、傍が見て、何か企んでいるのだろうかと勘ぐるほど、気持ち悪いくらいの笑顔を浮かべていたけれど、阿部はそれを見て「今日は随分機嫌が良いな」と、ただ素直に思っていた。
痘痕も笑窪。気持ちを向けている相手には得てして正確な目を失うものだ。
「阿部……さ、なんか良い事あった?」
「いや? 別に?」
釣られてニヤケただろうか。
口元を引き締めると、「なんか嬉しそうだからさ」阿部の顔を覗き込んだ泉が、丸めた教科書で手の上をぽんと叩く意味深な仕草をして帰っていった。
そこでようやく何事かと首を傾げたものの、あまり深い意味を思いつかなくて、阿部は返された教科書を捲って何気なく風を立てる。
すると規則的に紙が倒れる音が途中で不自然に乱れた。
ふと目を落とした阿部はぎょっとして立ち上がり、咄嗟に窓から身を乗り出す。突然大きく立てられた音に驚いた水谷は、傍でびくりと身を縮ませた。
阿部はいつも水谷が気を抜いている時に限って、いきなり予想しない行動をする事があるものだから、水谷にとっては心臓に悪い。
あと二つくらい、離れた席ならよかったのに。
顔の前で両腕をぎゅっと折り込んだまま、水谷はゆるくて長い溜息を吐きだした。阿部はそれに構っていられる風ではない。
7組と9組は間に一つ教室を挟んだだけの距離だから、短時間で移動ができる。
当然泉の姿はもうなくて、休憩時間だって十分程度のものだから、教室から飛び出しかけた阿部は無常にも、頭上からのチャイムに行く手を阻まれたのだった。
三限は返ってきたばかりの現国。
教科書の既に習い終えたページを開きながら、阿部はそこに挟まれているノートの切れ端を、眉間にしわを刻んでただじっと睨んでいた。
そこにはいかにも面白がって調子に乗った風の汚い字が踊り、『付き合うの?』と書いてある。
机の中に入っていた封筒を見て興味を引かれたのだろう一連の態度を思い出し、阿部は頭を抱えたくなった。
興味の無いことについては、とことん無頓着な自分の性質を呪いたい。
返す答えの決まっていた用件なんて、さっさと済ませてしまえばよかったものを、気が進まなくて後回しにしてしまったのも、中身が想像しやすい女物の封筒を人目に触れやすいところに置いたのも自分で、自らが撒いた種だから余計と項垂れる。事態は教科書を貸したくらいの小さな喜びを噛み締めている場合ではなかった。
席に戻って手渡さなかった事を後悔しても、後悔なんてやったあとで悔いるものだから、何を悔いても今更遅すぎると、三限終業のチャイムとともに、意を決したように阿部は立ち上がった。
それはもう、起立、礼すら忘れる勢いだった。
「泉」
9組の窓から覗き込むと、今日ばかりは見ていて嫌になるくらい仲のいい野球部、援団混合の塊が教室の真ん中少し前に輪になっていて、パック牛乳のストローを咥えたままの泉が呼ばれた方へ一瞥をくれた。
「貸した恩を売るわけじゃないけどさ、数Tあるか?」
ストローの中に白い液体を絶やさぬまま、こくりと頷いた泉が付近の机を漁ると入り口までやって来て、お探しのものはこれですかとばかりに無言で差し出してきた。
あの意味深な笑いは無いにしても、それでも面白いものを見たという目がきらきらと輝いたままでいるのが腹立たしいが、ここは我慢しておくびにも出さない。
「わり」
その教科書を、阿部は極力冷静に受け取って7組へと帰って行った。
昼のパンを調達するために購買に出掛けた帰り、先に9組へ寄って数Tの教科書を返した阿部は、昼食を取りながら花井と打ち合わせの続きをやっていた。
栄口も昼食を持参して遠征している。
「阿部? なんかある?」
オニギリを一噛み飲み込んだ栄口が怪訝な声を出すと、阿部は別にと首を振った。
平然と返したけれど、それは態々作ったものだった。
今阿部の頭の中にはめちゃくちゃに気になる別件がある。
「阿部さ、なんか、オマエさっきからうわの空なんだけど?」
栄口に図星を突かれた阿部が極力何気ない風を装って、「そうか?」と花井に意見を求めようとした瞬間、飛び込んできた田島の大声に一同、いや、7組全体が飛び上がった。
「あっべっ!! この字オマエのっ!? 断ったってナニがぁーっ?」
「田島ぁ、オマエ教室なのにちょっと声でかいよー」
栄口は苦笑いしたが、その顔が固まった。目の前に座っていた阿部が立ち上がったまま、外れたのかと思うくらい顎を下げて凍結している。
田島のあまりの大声に行く先を気にも掛けなかった9組の面々も何事かと後から駆けつけ、数Tの教科書を掲げる田島と、すぐ足元に怯える水谷と、対角線上で口を開いたまま彫刻と化した阿部と、それから固唾を呑んで成り行きを見守る花井と栄口、その他7組一同を順に見た。
「――い――泉」
裏返る声をどうすることもできないまま、阿部は喉から声を絞り出した。
「あい?」
こんな時ばっかり可愛げのある返事に眩暈がする。
「なんっ……で……っ?」
「何が?」
「なんで田島っ!?」
泉は首をかしげながら教室に入ってくると、田島の隣に立ち止まった。何事かとその手の教科書を受け取って目を落とし、
ぷっ――。
堪らず噴出すと身を捩って水谷の机に突っ伏してしまった。
突然泉の身体が目前の机上に落ちてきた水谷が驚いておろおろと手を泳がせると、震える右手の先に握られた教科書に目が留まる。
数Tって、この後の授業で使う教科書じゃん。これ誰の? 阿部の?
水谷は首を傾げた。開いたページにはノートの切れ端が挟まっていて、阿部の感情むき出しの汚い字が躍っている。
『断ったから!』
あ、なんだやっぱり阿部の教科書か、それにしても何このメモ……なんかもう、すごい書きなぐりっぷりなんスけど?
「阿部? なにこれ??」
「水谷それ閉じろ――今すぐ閉じろ!」
阿部の静かな怒気に当てられて、水谷は何もしていないから堂々としていればいいのに恐る恐る手を動かし、笑いを堪えきれずに目の前で肩を震わせている泉から教科書を取ろうとした。やっと身体を起こした泉がそれを止めて自分で閉じる。
「これ、これってオレ宛? 何も真似しなくても、つか、いいよ報告してくんなくて」
泣くほど笑うところかと、もう阿部の方が泣きたい。
「それはいいから――なんで田島の教科書?」
相変わらず両目の端を親指で拭っていた泉だったけれど、顔の紅潮をやっと治めて笑い終えると、まだどこか震わせたような、息の抜けるような声で言った。
「だって今日、うち数Tの授業ねえもん」
後頭部を机で殴られたような衝撃を受けて再凍結した阿部は跡形もなく霧散した。
夏/投/列/島/薬/局/
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