*rooms1
お題「喧嘩とスキンシップ」改題
「あとさ、78ページの応用問題、あ、それそれ問3のやつ」
泉が教科書を覗き込んで言った。
少し前に身を乗り出すと、体を預けていた台がカクンと揺れる。
阿部が両親の部屋から借りてきた折りたたみ式のちゃぶ台は、脚を出してみれば片方が少し浮いていた。
千切ったノートを折り重ねて敷いてはいるけれど、先ほどから角度が悪ければこうして傾く。
沈んだ方に重心が傾きすぎていたのか、皮膚の内側で肘の骨をぐるりと滑らせた泉が姿勢を崩した。ちょっときまり悪そうに笑って一旦背筋を伸ばす。そしてまた元のように体を戻した。
ほんの少しだけ笑っている時の泉を、いいなと思う。どこがと聞かれても阿部には正確な理由が指せないけれど、一番泉が近く感じられる時の顔だからだ。
そして一番、気持ちを伴った表情のように、いつも阿部の目に映るからだ。
見られていた事に気付いた泉から、何か? と訊ねるように見返された阿部は、何事もなかった面持ちで、訊かれた応用問題に視線を滑らせた。
泉を、いつからそんな風に意識してしまったかは知れない。はっきりと自分の気持ちに気付いたのは少しばかり前になる。
がっちりスクラムを組んでいるように、いつでも一固まり行動の9組から、やっと泉一人だけ引き剥がすコツを少し覚え始め、色んな方向に張られた泉のアンテナを細いところから順に手折るように払い落として、なんとか少しずつ自分の方へと手繰り寄せた。
おかしなことに、練習中あれほど感情に直結した言葉を吐く口は、いつもと同じようにはいかなくて、意味は違うけれど、三橋に平然と使った「好き」という単語は結局泉には言えずじまいだ。阿部は言葉の重さがこれほど大きく変わることを初めて知ったみたいに、その違いに驚いた。
結局のところ、どこまで汲取ってくれているかは判らないまま、今は泉の察してくれるに任せている。
説明するために一度手元で問の計算を始めると、泉は腰を浮かせてちゃぶ台に着いた肘に体重を乗せ、バランスを取るようにしてシャーペンの先を注意深く見た。
書き出される計算から理解しようというのだろう。
安定の悪い姿勢で招くよう頭が僅かに揺れると、ふと近付いて触れたい気持ちが起こる。
「そんな乗り出し方してると、またガクッとやらねえ?」
「大丈夫、攻略済」
俯いた口元がまた笑った。それがすっと縮むと、ふいに泉が間近で顔を上げる。
「家、おばさん居た?」
部屋の外で立った物音を聞きつけたようだった。
「シュンだろ? ずっと家ん中に居たぜ?」
「そか、挨拶しないで上がりこんだかと思った。弟?」
泉がドアのほうに興味を示していると隣室のドアの開く音が聞え、合わせるみたいに目前のノブにその手が掛けられた。
「――あ」
頭上から、流れ込んできた廊下の空気と一緒に、少し高い声が部屋に投げ込まれてくる。
「ちわーっ」
泉が開けたドアの隙間から、声の主は一瞬ちらりと阿部に視線を投げると、それをすぐ、ぐいと手前に戻して泉に向け、「ちわっ!」と照れた風に会釈した。
「野球やってんだろ? 今日は練習休み?」
「はい! あの、お兄ちゃんと一緒の部の人ですか?」
「そ、オレ外野手の泉」
ドア越しの会話を聞きながら、阿部は持て余して黙々と問題を解き始める。
「あ、オレは二塁です!」
ボキリ、小さいくせにやたら通りのいい音を立てて芯が折れ、嫌なタイミングだと顔を上げれば、シュンと目が合った。
マズイ、という顔をしているが、この場合、気まずいのは確実に兄の方だ。
「あっ! あの、オレちょっと出かけるんです」
「ああ、引き止めて悪かったな」
「いえっ! じゃあ」
「あ――なあ」
恐々その場を立ち去りかけたシュンが、阿部から死角になった位置で立ち止まった。
「兄ちゃんにイジメられたら相談に乗るぞ、オレも弟なんだ」
聞えないくらいの声が壁の向こうから聞えると、泉が手を振ってやっと扉を閉めた。
ほら見たことか、両方に誤解された。
おまけにカチカチとノックしても中々芯が出てこない。これではいよいよ自分が脅して追い払ったようではないか。実際シュンは怯えて逃げるし、泉はシュンの態度を敏感に察してしまったし、間の悪い事といったらない。
二百円もしない安物のシャーペンに恨みの全てをぶつけ、阿部がノックを続けていると、ようやく根負けしたように新しい芯が顔を出した。
「オマエ今、弟に圧力掛けたろ」
「アイツが勝手にびびっただけだよ、泉、兄貴いたっけ?」
にやにやと笑っていた泉が、そう言えばそんな話はしていなかったかと眉を上げた。
「いるぜー五才上の兄貴が一人、要領悪いくせに、いっつも何か仕出かすときにはオレを巻き込むのがな。留守中にオレの部屋に篭もるし」
「篭もる? 何のために? 兄貴も部屋あるんだろ?」
泉は筋肉の構造を触って確認したくなるくらい複雑な動きで顔を歪めると、少し言葉を溜めてから口を開いた。
「オレら、遅くまで練習があるから日中絶対いねえだろ? 親も当然オレの部屋は無人だと思ってるわけ」
「無人だろうな」
「そこへさ、上がりこむの、多分自分達が履いてた靴持って、こっそり女連れで」
阿部がうっと詰まった。泉が喋る前に詰まった理由がこれだろう。
「鉢合わせたのか?」
「んな時間まで居ねえだろ、残ってんだよ長い髪がさー」
「おばさんのじゃなくて?」
「親はオレより短けー、見たろ?」
「じゃ泉?」
「もっと長え」
「浜田」
当てものみたいなやり取りになって、なんとなく無関係な名前まで思いつくまま口を突いて出はじめる。
「なんで浜田?」
すかさず指摘はしたものの、泉も既にリズムで喋っているようなところがあった。いつにも増した口数の多さがそれを裏打ちしているように感じる。
泉は浜田という可能性が皆無であることについて、早速調理に掛かっていた。
「いくら近所でもアイツは家に上がり込んだりしねーよ」
それに色は水谷くらいだしな。
有り有りと思い出したのか、泉はしばらく表情を険しくしていたけれど、不服そうに嘆息してそれを終息させると頬杖を着いた。
「なんか深読みしちまって、オレ別に潔癖症じゃないけど髪が落ちてなくてもシーツ取っかえてみたり、床で寝てみたりでさ、もう全くの他人じゃないのが微妙」
「――ヤベ」
「だろー?」
そうじゃない。
「じゃなくて」
阿部は目立たないように合板の上をそっと撫でた。聞いた話が悪かったのか、さっき触れたいと思ってやり過ごした気持ちが、先程より強くなって戻ってきてしまったのだ。
「じゃなくて?」
聞き返すように顔を覗き込まないで欲しかった。木目の感触では少々気持ちを誤魔化し辛い。
阿部は観念したように小声でぼそりと呟いた。
「泉さ」
「おお」
「ちょ……と触ってい?」
「あ? いーけど?」
頬杖をついたまま返してきた泉の言葉があまりにこざっぱりと間髪入れぬものだから、阿部は半ば前につんのめりそうになって泉を凝視した。
「ってか面白れーこと聞くな。オマエそんなの一々断んの?」
別に相手が困るような触り方をしようとは全く思っていなかったけれど、泉の反応が簡潔すぎて躊躇われる。
「いいわけだ?」
「は? いいよ? 別にいつでもどこでもどうぞ」
確かめても承諾している態度は全く変わらず、阿部は手を上げた。
そのまま動きが止まってしまう。
「なにその手」
胸元で小さく挙手したままの阿部を見て、泉は不思議そうな顔をした。
「いや、なんかそうガン見されてると手出し辛くて」
「オレが? 違くね? お前がだよ。――ああもう、これなら文句ねえ?」
歯切れの悪い阿部が面倒になったのか、泉はおもむろに目を閉じた。
(そろそろ出ないと)
玄関でスニーカーを履き終えたシュンの鞄の中から、着信を伝える振動が起こった。
『シュンちゃん? 冷蔵庫のグラタン分かった?』
「お母さん! うん、食べて流しに漬けてあるよ!」
鞄の中を掻き回し、シュンはもう一度忘れ物がないかと中を確認した。
『塾、気を付けて行きなさいね。あ、そう言えばタカは?』
「帰ってるよ。泉さんていう野球部の人が遊びに来てる」
(よし、忘れ物は無い)
玄関を開け、施錠するためにシュンはもう一度荷物に手を入れて中を探る。
鞄の内ポケットからキーホルダーを引っ張り出して鍵穴にキーを差し込もうとした途端、家の中でなにやら騒がしい声が上がった。
びっくりして手がすべり、金属同士の擦れ合う独特のむず痒い音にシュンは身震いする。
挨拶した時の印象からは随分離れた泉のすっとんきょうな声と、兄の、つもりはなくても怒鳴っているとしか聞えない声。
『えーっ!? 手っ! 手じゃねえの!? 今の手じゃなかったろ! 何すんだよ!!』
と、泉は叫んだように聞えた。
『オマエが目瞑っちまうから悪いんだろ!』
と、兄は怒鳴っていた。訂正、叫んでいた。
まだ今しがたの音で指先に気持ち悪さが残るのを堪えて施錠すると、シュンは門扉を閉じて道路に出た。
とりあえず、兄にイジメられても泉さんは当てにならない気がする。
シュンは今までどおりに、自分なりの処世術を磨くことを心に決めた。
夏/投/列/島/薬/局/
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