*rooms3
お題「チュウ(キスではない)」改題
時間を作りたいことがいくらあっても、毎日部活があって帰宅は遅いし、学業だってある。
学生だから、帰宅が家族の予想を超えれば当然やかましく口を挟まれる。
毎日の時間は24時間じゃぜんぜん足りなくて、ばかばかしいと思っても、真剣に48時間欲しいなんて悩み事、ため息と一緒に思い浮かぶくらいなのだから。
だから、こんな貴重な機会、そうそうやってこないんじゃないか?
阿部はちらりと隣に眼を向けた。先ほどから何度か、同じことをしては天井を仰ぐことを繰り返し、繰り返し。
その視線の先。隣には阿部と同じように、ころりと床に寝転がっている人物の姿がある。
髪の隙間から、耳が柔らかい曲線を覗かせるその頭は、見ている間に壁の方へともう一度傾いた。
視線に気づいたのだ。勘の鋭いところ、こんな時には舌打ちしたくなる。
さっきからずっとこんな調子。前にも後ろにも立ち行かないからじれったくて、腹の中が何かに揉まれているようだった。
訪問したときには階下に居た泉の母が思いがけず外出することになり、他に誰も居なくなって既に数十分。
門扉の閉まる音がした段階では真上を向いていた泉が、目を向けるごとに左へ左へと顔を逸らして今。もうそれ以上横向くことなんてできないくらいきっちり壁に向ききってしまって、まったく取り付く島もなかった。
何やら持て余して足先を上下左右にはためかせはするものの、そっぽを向いている事を思えば、心境がマイナス方面へ振れているのは疑いようもない。
わりと早いうちに手に触れたら、さっと払って引っ込められてしまい、その時に、間に置いてあった茶菓子の盆をぶった泉が慌てて手元を確認して以来、阿部の方へと顔を向けようとはしなかった。
もう少し、強気に出ればよかった。
手に触れるなんて中途半端なことはせず、両腕を捕らえてはっきり意思表示をすれば。
案外こうして手をこまねくこともなかったのかも。
とは後になってこそ思えることで、その場ではとても、今思ったような行動なんて、取れたもんじゃない。
カーペットから離れ、冷えて固まったような爪先を伸ばすと、阿部は何度目かの溜め息を吐いた。
重たい空気は口の外に全部を押し上げきれなくて、吐き出した息の半分が舌の上に戻り、餅を乗せているように喉が詰まる。
音が気になって、唾を飲み込むことも満足にできない。
高校に入ってからというもの、相手に辛抱強く向き合うという努力をそれなり重ねてきたはずが、全く役に立たないことに苛々が募りはじめてくる。
概ねとは言い難いけれど、相手が三橋で、内容が野球やありふれた事ならばともかく、こっちは深謀遠慮が必要な相手というわけではない。通じるまで話を戻しながら、確認しながら、とはいかない。
今の場合、話が通じていないのではなく――。
頭の向きに釣られて浮いていた肩が隣で持ち上がると、泉は頭どころか体ごと向こうを向いてしまおうとする。
(自分で聞いておいて――)
背中が床を擦る音に、ふつり、と気持ちを抑えていた仕付けが切れた。
煮え切らないまま、けど元々泉に向かってはみ出ようとしていた感情に押されて阿部は身を起すと、境界線代わりの盆をようやく乗越える。
距離約三十センチ。到達時間三十分超。
カタツムリだってこんなにのろまじゃないだろう。
身を乗り出して泉を覗き込むと。気配と、体に影が差したことに加えてテレビから観客のどっと笑う声に反応したのか、泉はぴくりと体を揺らして床から目を上げた。
その拍子に緩んだ肩を押し下げて仰向かせると、泉の目蓋が見る間に円を目指し引き上げられていく。
「――ぅえっ?」
「嫌なら聞くなよ……こんな固まられたら、どうすりゃいいか分かんねえだろ」
阿部の背後に苛々の重い雲でも見えるのか、自分に影を落とす体のむこう側にあるものを確かめるように、泉は一度、見開いた目をきょろりと巡らせた。
一続きの動きでその視線を、さっきまで阿部が寝転がっていた床の辺りへと落とす。
「嫌とは言ってねえよ。腹が括れてねえだけで」
嫌ではないと聞いて、泉の肩を掴んだ手に力が篭ると、
「けど、自分が……あんな風にすんのかと思うとなぁ……」
渋い顔で呟き一点を睨んだ。
「あんな風?」
ちらりと阿部を一瞥して、また視線を同じところに戻す泉は何を見ているのか。
阿部は身を伏せ、床の上に視線を滑らせて泉の視線の到達点を探ると、真っ暗な床とベッドの隙間には、何か四角い塊が見えている。
一センチ程度のものが複数の摘み上がった影には見たような覚え。
つまり、そういう関係の『資料』が影に積まれていた。
「あんなところに置いて見つかんねえ?」
「阿部さあ……オマエってオレで抜いてたりするワケ?」
(あ! ちょっ……やっべ――)
ベッドの下はマズイだろう。そう言いかけたところの一声に思わず背中が浮き上がり、手のひらから肝に掛けてざあっと冷えた。
図星を突いたことが分かったのか、泉が鼻からふんと息を吐く。分かりやすい反応をした阿部に非難の目を向ける事はなかったけれど、代わりに、含みのある、微妙な表情にはなっていた。
「そン時に想像してるオレを自分に置き換えてみ」
「……想像したくねえ」
聞くなり泉は喉の奥で、くうっ、と息が抜けるような笑い声を上げ、
「だろ? お分かりいただけましたかタカヤサーン」
させんのは良いけどするにはハードル高っけえワケ。
床から上げた手を阿部の背中に回すと、ぽん、と叩いて宥めた。
泉の言いたい事、お分かりさせられはした。
(お分かりいただいたけど――)
ふざけた調子でも耳元で名前なんて呼ばれれば、勝手に甘く聞き取れてしまう声色へと誘われる。
おまけにこの体勢。
自分をどうにかしたがっている相手に許す距離ではないし、どうにかしたい相手に対して我慢の利く距離でもない。
心臓が強く打って、伏せた体の表側に血がどんどん集まってくるみたいで、到底
「――けどムリ」
抑えられないことを告白すると、元々でかい目がもう一回り大きくなった。
こうなってしまってはもう、退けない。
そう、強攻策に出ようと肩をぐいと押さえた途端、阿部の視界にしっかり収まっているはずの泉が瞬時に消え、目の前に迫ったグレー一色のカーペットが天井のアイボリーにぐるりとぶれた。
何事か、呆気に取られて視界に納まるままに電灯を見上げた阿部が、我が身に起こった変化を確かめるためにそろそろと視線を降ろしていくと、天井から壁を下ってすぐに先ほど視界からロストした人物が現れた。阿部の着ているシャツを掴んで腹の上へと馬乗りになり、悪戯を思いついたように目を輝かせている。
「兄弟喧嘩で鍛えてっからな。そう簡単にはいかねー」
「泉!?」
「だからオレがしてやる。そんならハードル低いっつーかアリだ」
握っていたシャツを放して阿部の胸に手のひらを置くと、泉は目を細めた。
阿部はぽかんと口を半開きにしたままで、まだ、逆転された事情を飲み込めていない。
「……は?」
その顔が余程可笑しかったのか、泉はぷっと音を立てて吹き出すと、体を折って笑い出した。
次々溢れる笑い声に段々と回路が繋がってくる。おまけに、可笑しくてしょうがないと体を震わせている泉が自分の腹に乗っているのだから。
阿部にとっては堪ったものじゃなかった。
「泉……オマッ! オレでそれはアリなのかっ!?」
「アリアリ。オレだってそういう目でオマエ見れるし見るし」
泉は傲慢さを伴った顔で阿部を見下ろすと、艶然とした笑みを浮かべた。
思わず自分の置かれた状況を忘れて見入ってくる阿部に辛抱できないのか、一度は止められた可笑しさが込み上げてきて、泉は顔を背けて歪め、肩を揺らしている。
(そっ! ……ンなワケにいくかっ!)
阿部の方は思うように進まないどころか焦れて、いっそ泣きでもしたいくらいだ。
(んで当たってる! 当たってんだって!)
こんな状況で我慢するのは絶対に無理。だけど主導権を握られるのは本意ではないというのに反応してしまってどうにもならない。
すると泉が笑うのを止め、ぴたりと動きをとめた。
阿部の変化に気付いてしまうと、この応酬の先にあるものが現実味を帯びてしまい、妥協案を申し出た事も忘れて一瞬怯んだらしい。
面食らって身を逃がすという、泉らしからぬ曖昧な態度に、阿部の中で全部切れていたかと思っていた残りの仕付けがぶちぶちと千切れ飛んだ。
がばっと身を起して腹の上の荷物を家具と壁の角へ追い込むと、顔のすぐ横に手を付き逃げ場を塞ぐ。
「これじゃラチ明かねぇ……」
バシンと鳴った思いがけない音量に思わず目を閉じた泉の耳に、低い声が届いた。
泉が恐々目を開くと、明らかに業を煮やして腹を立てた阿部が目と鼻の先にいる。見る間にもその顔は、企み事をしているときの不穏な笑いへと変わっていった。
「その気はあるんだから、とりあえず始めて、嫌なところで泉がそう言やいーんだよな」
今度は泉が肝を冷やす番だった。
コトの最中にそんな訴えをしたところで止められるだろうか。そんなもの、歯医者が痛くなったら言えというくらい、当てにならないんじゃないだろうか。
『はーい、ちょっとガマンしてー』
とか治療中が如く言われたら、泉は我慢どころか阿部をタコ殴りしてしまいそうだし、意外と阿部が上手ければ、醜態を曝すまい思えども、自分の方に自制を利かせる自信もない。
自分が阿部の立場なら、ほぼ確実に止まらない自信が泉にはあった。
(こいつにそんな精神力あんのか……つかー……そんなのあったら、あんなすぐ三橋に怒んねー……)
すばやく頭を一巡させた泉は、おずおずと遠慮がちに口を開いた。
「――下はイヤです……」
「はっ……えーよ!!」
「ったりまえだ! そんなの一番アテになんねーだろ!」
強行手段に出ようとして、裾をたくし上げて侵入する阿部の手を引っこ抜くと、もうその後は、傍目から取っ組み合いの喧嘩にしか見えない光景が繰り広げられた。
お互い、なんとか自分に有利に運ぶようにと、ばたばた埃を立てながらつかみ合っている姿を見て、だれが甘い想像を掻き立てられるだろうかといった有様だ。
これが部室かグラウンドなら、慌てふためいた花井や栄口から引き剥がされるような。
戦いは阿部が優勢。喧嘩慣れしているはずの泉は壁を背にしていたお陰で劣勢を強いられた。
低いところに置かれたデッキや細々した雑貨が腰や膝に刺さって、兄弟喧嘩で培われたスキルを思うように発揮しきれず、じりじりと追い込まれる。
挙句は後ずさった拍子に泉から自滅した。
背の低い家具の脚と自分の体との隙間に片足を封じてしまい、どうにもしようがない。
「カンベンしろよ。阿部だって想像したくねえって言ったじゃん」
音が立つほどの勢いで壁に体を押し付けられた泉は喘ぐように訴えた。
家具に邪魔をされるために腰が不安定に浮いて、反撃しようにも力が入らない。
「だからって一から十まで全部ダメって事はねえよな。それじゃ食わず嫌いみたいなもんだぞ」
「食わず嫌いでけっこ……っ……ぅやっ!……」
反抗を無視してシャツの中を這い登る指に驚いて、デッキを庇うように逸らせていた背中が崩れた。
頭を一度壁にぶつけてぐしゃりと床へ転がる。
倒れる過程で引っ掛けられたCD数枚が落ちて体に当たり、バラバラと音を立てながら床に散らばると、続きに何か重いものが壁にぶつかる音が立った。
「ちょっと待て、阿部。――なんか……っあ……音……」
どうやら気付かなかったらしい阿部に泉が訊ねると、
逃げる隙を与えないよう、もぞもぞと肌に手を這わせていた阿部がちらりと目を上げた。
けれどすぐ、『往生際の悪いヤツだ』とあからさまに信用のない顔になり、下腹の方へと手を差し入れようとしてくる。
「オマっ……何だその疑り深いツラ! 信用してねえだろ!」
そう叫んだ時、今度は阿部にもはっきり聞えるほど、どしり、と壁を蹴る音が鳴った。
向こう側に誰か居る。そう、思わずお互いの顔を見合わせたところで、
『っせえぞ!!!』
その、壁の向こう側から怒り飛ばされた。
「――え? 誰……?」
首をかしげた阿部の耳に、「なんで兄貴が居るんだよ!」と裏返った泉の声が届く。
(兄貴? 兄貴……ああ、例の兄貴。ってことは――)
「またヒトの部屋に潜り込んでたんじゃねーだろうな!」
阿部はがっくりと項垂れた頭を泉の肩に乗せ、沈痛な顔で黙した。
家に、それも隣りの部屋に家族が居るのだ。
(つまりここまでの苦労は御破産……?)
そうということになる。
壁の向こう側からは羽根の震うような音がしていた。多分音ではなくて女の子の笑い声なのだろう。
泉の指摘はあながち外れてはいなかったようだ。
弟が帰ってくるまでここに居て、思いがけない時間の帰宅に自室へ逃げていったのだろうと優に想像できる。
泉の兄の顔など知らないけれど、女物の靴を片手に彼女を部屋から押し出す人間の姿が阿部にはありありと思い浮かんだ。
『とにかく隣で暴れんな! うるさいから!』
「へえへえ――おい阿部?」
兄の苦情を生意気な返事で受け流した泉は、項垂れたまま固まる阿部に気付いて声を掛けた。
胸の上に持ち上がってきたのは不景気な顔。
兄が在宅をしていなければようやく本懐を遂げようとしていたのだから、無理もないだろう。
そう、さすがに同情を禁じえず笑みを浮かべると、泉は阿部の背中に両腕を回した。
言うべきを終えた隣室からの声はもうない。
全て再送を終えてデッキが捲き戻しを始めると、テレビから聞えてくるのは今日の日付を伝えるアナウンサーの声だ。
少し薄暗くなった部屋の中。
時計はそろそろ母が都内に入るだろう頃を指している。
「泉?」
「まあ、これで行き過ぎたことはできねえだろうからさ――十歩譲って隣に分かんねえ程度。言っとくけど余計な事すっと隣り呼ぶからな」
慰めるために背を撫でていた手のひらを招くよう阿部の後頭部に沿わせると、乱雑に髪を掴んで頭を引き寄せ、泉は細めた瞳をゆるく閉じた。
調べるような手付きで薄い目蓋をなぞられた時に、読みが甘いだろうかと一抹の不安が泉の頭に掠めたけれど、多分、少々のことなら目を瞑れなくもないだろう。
そう楽観視してようやく思い切れない腹が括れる。
テレビのボリュームが上げられたことには気付けなかった。
夏/投/列/島/薬/局/
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