*約束1
泉から浜田への。
高2or3-夏
ネタバレ【アフタ2010年6月号】
2010年3月阪神電車入線案内表示改装・ダイヤ改正ならびに
アフタ2010年6月号の内容に沿って改稿。⇒
旧文はこちら
地 区【埼玉】
代表校【西浦高校】
回 数【初出場】
第1日・第1試合
木目が浮いた滑らかな廊下に、窓から青白い光の差す明け方。民宿の玄関先でカラリと引き戸の開く音が発った。足音は玄関から板張りの床に引き継がれ、慎重に階段を軋ませて二階へとたどり着く。上がってすぐの部屋の前で立ち止まり、少し躊躇うような間を置いた後で襖がそっと引き開けられた。
襖の向こうから、暗い部屋の中で溜まっていた幾人もの寝息が流れだしてくる。畳を這って足元を超え、廊下へと広がっていく。
開会式の時間に合うよう、野球部を追って応援団の一部が前日現地入りしたばかりの時には、まだ興奮して一頻り騒いでいた部員達も、こうして靄いだ闇の中を見渡せば誰一人として正体もなく、上級生も、下級生も、織物の縦糸と横糸が折り重なるように、手足を上へ下へと重ねて眠っていた。
その中へと足を、腕と、腕と頭の隙間、脚と、腋と布団の隙間といった具合に、体を踏まないよう注意深く踏み入れる。薄らと浮かぶ人の輪郭の間を縫って中程まで進んだ人影はそっと屈みこみ、布団に半分埋もれた鼻を軽く指で摘んだ。
手元で、すん、すんと呼吸を損ねる音が聞え始める。
空気を探すよう頭を揺らした塊から、ぽつんと点のような光が現れた。
息苦しさに眠りの中から引き戻され、誰かがぼんやりと目蓋を上げたのだったけれど、目を開けたとたん、布団を抱え込んだ体が人影に驚いて、ぎゅっと竦んだ。
慌てて鼻から離した手を口へ遣って塞ぐ。と、塞いだ効果か、ぎりぎりの所で相手が状況を把握できたのか、口を覆った手の下からは幸い叫び声が上がることも無く、ただ短く、きゅっと喉の窄まる音が発せられただけだった。
「泉、ちょっと出れる?」
逆光で塗り潰された人影を見分けるため、大きく目を開いていた泉の口から手を放して訊ねると、聞き覚えのある声に安心したのか、泉はまた、とろんと半分まで目蓋を下げて一度布団に顔をこすり付けた後、まだ眠いことを主張するよう枕に頭をつけたまま、億劫そうに体を起した。
「んだよ浜田。これじゃ朝練のある時と起きる時間変わんねーじゃん」
泉が眠い目を擦りながら民宿の階段を降りきると、先に部屋から出ていた浜田は、もう玄関先で待ち構えていた。
外へと、出るつもりなのだろう。
早々と足にスニーカーを履き、今にも引き戸を開けようと落ち着きのない様子で笑顔を浮かべながら、泉を自分の方へと手招いている。三和土の上には、ご丁寧に泉のスニーカーまでが揃えられていた。
開ききらない目じりに涙を溜めて、まだ半分眠った頭で何事かと首を傾げながら、泉は促されるまま上框から片足を浮かせ、スニーカーへと足を差し入れる。
両足を三和土に降ろした。
途端、浜田から唐突に腕を掴まれ、踵を靴の中に入れられないままに腕を引かれた泉は転がるように外の道路へと連れ出された。
「なんっ! だよ! ――え、――えっなにっ!?」
並べかけた苦情の言葉が反動に負け、頭がガクンと仰け反った。声が途中で、ブツリ、ブツリと千切れ飛ぶ。
「何!? だからっ! なにっ!? なんなんだよ!!」
遮光カーテンと引き戸を閉めた玄関先。
狭い軒の間に、泉の泡を食ったような声が再び上がった。声は段々と玄関から遠のいていく。
青白く濡れたような朝の空気に相応しくない駆けるような声。それに慌しい足音が狭い私道を右から左へ通り過ぎてしまうと、辺りはまたしんとした静けさが戻り、家々は何事もなかったように住民の目覚めを待つのだった。
細い路地をいくつか曲がり、大通りに出た浜田は泉の腕をしっかり掴んだまま、早朝から次々車の行き交う国道を背に、どんどん道を歩いていく。
一方で泉は躓くようになりながら、背後の国道と、その上の高架道路を振り返り振り返り、引き摺られていた。
泊っていた民宿のある一角は工場か何かの塀に隠れて視界からすっかり消え、もう、自分達が出てきた付近の建物は、全く見えなくなってしまっている。
「こんな時間にどこ行くんだよ」
「うん、ま、ちょっと付き合え」
ちらっと後ろを振り向いた浜田の肩越しには、昨日百枝と志賀に引率されて降り立った駅の駐輪場が覗いていた。
「え? オマエ電車乗る気? 走ってるワケないじゃん。まだ4時過ぎたばっかだろ?」
ダイジョウブ。
泉の言葉を切ってそう言った浜田は、迷い無い足取りで横断歩道を突っ切ると、手前の券売機も無視して改札へと進んでいく。
片手には既に切符が二枚、しっかりと握り締められていた。
一枚を通した改札に泉を押し込んで、もう一枚を通した隣の改札を通る。
泉は寝ぼけた頭で訳も分からず改札に足を踏み込み、侵入したままの方向へと進みかけた。
「どっち行くんだよ、そっちは大阪方面。こっちこっち!」
忙しない声で呼ばれてまた腕を取られ、神戸・姫路方面と表示された階段へと引っ張られる。
コンクリの細かな階段は、一段飛ばしでプラットホームに上りきる。階段を上りきって周囲に目を向けると、今しがたまで、水の中にいるように薄青い色をして見えていた景色がその青さをすっかり空へ引き上げて白み、町は本来の色を取り戻して泉の目に飛び込んできた。
向こう端にある、駅と同じ高さの公園を兼ねた遊歩道には緑が茂り、それほど高くはないビルが、ざっと駅の周りを取り囲んでいるようだ。
頭上には、『普通新開地行』と、白抜き文字の行き先表示。
目の前には、丸みを帯びた体を灰水色と薄灰のツートンで塗り分けた、どこか郷愁を誘う外観の車両が扉を開いて待っている。
浜田は泉を捕らえたまま、進行方向を確認するよう左右を見渡してから、どこか決然として先頭車両へ足を踏み入れた。
それを見計らうかのようなタイミングで、車内に出迎えのアナウンスが流れる。
『おはようございます。
今日も阪神電車をご利用いただき、まことにありがとうございます。
この電車は4時36分発、普通新開地行。
尼崎から新開地までの各駅に停車致します。
発車まで、今しばらくお待ちくださいませ――』
見事に空いた座席には腰掛けず、浜田は運転席越しに線路の先を見ている。
ここまできて、何か思い当たった泉が口を開いた。
「付き合えって――浜田。オマエ、まさか甲子園球場まで行く気か?」
浜田は泉が訊ねる声に顔を向けたものの、すぐに泉の顔から頭に目をやると、問い掛けには答えなかった。
「すげー寝癖だなあ」と笑いながら、浜田は明後日の方を向いて好き勝手に跳ねていた泉の髪を四方へと掻き回している。けれど、それくらいでは直らないと知ると、自分の頭を覆っていたタオルを解いて泉の頭に括り付けた。
それからやっと、
「見たくね? 球場。誰よりも早く一番最初に」
それはもう、どうにも待ちきれないというような声で言うのだ。
ぽかんと開いた口を閉じる反動のように、一度目を大きく見開いた泉は、視線を浜田から、浜田が見ていた線路の先へと移してその先にじっと目を凝らした。
その表情はすぐ、苦いものを含んだものに変わる。
「――見たよ。だってオレら予行練習だってあったし、昨年……、オマエも知ってんだろ」
ガラスに付けた指先へと目を落としながら、言葉の途中はきまり悪そうに消えていく。
しっかり目に収めて来いと、出発前に届いた浜田からのメールを受信箱の一番上に伴って、泉は去年この先にある球場へ、他の部員たちと共に足を運んだ。目標として掲げるものが実際にどんな場所かを知るために。
メールは今でも消えずに残っている。
自分だけ、抜け駆けしたみたいに思えて、後ろめたく感じてしまう。
「へ? 去年と今年じゃ全然違うじゃん。予行もさ、だって今日、出るんだ。見ときたくね?」
さも大切な事を諭すように浜田は言うと、言葉を濁す泉の背を軽く叩いた。
試合はもう、数時間後に迫っている。夢にまで見たグラウンドはこの線路の先にあるのだ。
改めてそう意識すると、「見てえな」という呟きは、小さいながらも強い意思を持って音を成し、再び顔を見合わせると、お互い、にっと口の端を上げて笑った。
発車のアナウンスと警告音が流れて扉が閉まり、電車は緩やかに線路へと滑り出す。
左の窓の向こうには、視線よりわずかに低いところを、駅までの道々背を向けてきた高架の道路が平行に走り、その向こうには、何本かの煙突が空へと伸びていた。さらに向こう側はどうなっているのか、土地が無くなっているように建物の重なりの少ない、青く空の広がる風景があった。
まだ清々しくも薄い色の空を数羽、白い鳥が舞う。
のんびりと、時々乱雑に揺れながら走る普通電車はまるで遠足にでも行くようだ。
どちらも「なんかデカイ鳥が飛んでるぞ」、「車内吊タイガースばっかり」などと言い合って、線路と左右の風景を、一つも漏らさず目に収めようとしている。
そんな他愛ない、それでも期待と微かな高揚を含んだ会話を運びながら、電車はカタコトと線路を進んでいった。
「阪神ってさ、駅とか沿線、京急にちょっとカンジ似てない?」
「似てねえよ。ってか、オレ京急ほとんど乗らねえから、覚えてねえ」
次の駅は驚くほど近く、そのせいか、電車はその後も速度の上がらないまま進んだ。
広い川の上にホームを渡した武庫川では、駅の隙間に水面を覗こうと苦労をし、出発して通り過ぎきるまで目を凝らしていた。けれど、鳴尾を越し、甲子園の駅名が告げられる頃にはどちらも無言で、線路の先から徐々に迫るプラットホームの直線を、ただ黙って見ていた。
何本も渡されて広々とした甲子園のホームに二人、ぽつんと降り立つ。
他に降りる人はなく、電車を待っていた利用者もすっかり車内に収まって、ツートンカラーの車両がみんな運び出してしまった。
階段を下りている途中にも、改札が見えるところに来ても。
誰一人として向こうからやってくる気配は無い。駅構内は自動改札の矢印や、灯る蛍光灯が辛うじてこの駅が起きて働いていることを伝えるばかりで、まるで駅員すら居ない無人駅のように静かだった。
ここを出れば――。
神妙な顔で、一歩前へと踏み出す。
吸い寄せられるように改札へ。
ところが、改札を潜ろうとした泉の後ろで何か慌しく動いたかと思うと、いきなり後頭部の結び目が掴まれ引き止められた。踏み出そうとした足が大きく後退って体がセンサーに触れたのか、静かだった駅に改札機のけたたましい警報が鳴り響く。
「――にやってんだオマエは!」
「先に出んなって! 切符が落ちたんだよ!」
二重に鳴る警報の中、浜田がやっと拾った切符片手に改札機と格闘する姿が目に入り、泉は唖然とした。
あまりの騒がしさに両手はしっかりと耳を覆っている。
ややあって警報が中途半端な音を出して途絶えると、その後を引継ぎ、泉の心境をまるっきり正確に映したような呆れ声が聞えてきた。
「自分らあかんがな。自動改札で遊んだら危ないで」
見れば無人と思っていた改札の端に、白い半袖に紺色の制帽を被った駅員が小窓から頭を出し、こちらを覗き込んでいる。目立ち始めた白髪を隠すでもなく、日に焼けた顔には、いくらか深くなった皺が笑みの容に敷かれている。駅員は注意をしながらも面白いものを見るように、黒い目をちょっと光らせて二人を眺めていた。
改札からやっと出てきた浜田が頭を下げると、駅員は「もういいよ」とでもいうように手を揺らして笑う。
浜田も泉も、釣られるように揃って顔にごまかした笑いを貼り付けて、改札に背を向けた。
正面にはバス停を備え、きれいに舗装された広い道路。
改札の左には、試合の時に使うのであろう臨時の出入り口と券売所が手前に出っ張っていて、その先に、右手にずっと小屋のような売店が、今はどこも口を閉じ、眠ったように並んでいる。さらに奥には始発駅からずっと隣に伸びていた高架の阪神高速道が渡って、その高架の奥に、塗り潰したみたいな、何やら巨大な壁が覗いていた。
「浜田、あれ」
橋桁の近くに、僅かに覗くプレートを見ようと浜田が身を屈める。球場名が書かれてあると思しきそれは、すっかりしゃがみ込んでみても障害物が大きすぎて、駅からは到底見えなかった。
「こっからは見えねーんだ」
「こんな早くから応援に来たんか?」
泉が呟くと、背後からまた声を掛けられた。
先ほどの駅員だ。
「オレはね、コイツは出ますよ。試合」
浜田が立ち上がって泉の肩を掴み、駅員の方に押しやりながら返事をした。
それはどこか、少し得意そうにも誇らしげにも聞えて、泉の耳にくすぐったく届く。
「今日試合?」
「第1試合っす」
「ああ、西浦高校。初出場や」
駅員から思いがけず学校名を言い当てられて、揃って目を剥くと、
「自分ら今日の相手関西の高校やろ? そら、喋ったらどっちかすぐわかるで」
そう、彼は朗らかに笑った。イントネーションから学校を見分けられたのだと合点がいったのか、ああ、と頷く浜田と駅員とを、泉はきょとんと見比べている。
「おじさんは? 試合みれんの?」
「うん、ここのちーこいテレビで見るで」
「じゃあ、じゃあ打席にさ、コイツ先攻で1番最初に立つから見ててやって」
「1番? へえ、よう打つ子なんやな。がんばりや」
呆け顔で会話を聞いていた泉が弾かれたように深々頭を下げると、それを合図に浜田も頭を下げる。
二人は手を振る駅員に別れを告げて駅を後にした。
何十羽もの鳩。それに混じって尼崎を出たときに見た白い鳥が、足を踏み出せば路上からわっと飛び立って行く先をあける。
羽ばたきは夏空に広く響いた後、吸い込まれるように消えていった。
「さっき電車で見えてたでかい鳥ってカモメじゃね?」
「カモメ?」
「ここって海に近いんだよ」
浜田はすでに遠く羽ばたく白い翼を見送りながら言う。
泉はその説明に、ふうんとだけ、何気なく返していた。
一歩一歩、進むごとにアスファルトを踏む足と心臓の音が耳のすぐ傍で鳴るように大きく聞え、目線の高さにあった高架が徐々に頭上高くなって二人の上に影を重く落とす。
平衡感覚が狂うくらい広い橋脚の横を通って高速道路の下を潜ると、駅から僅かに見えていた看板は、やっと姿を現しはじめた。
保護柵の隙間から覗いている姿ながらも真四角のプレートに一文字ずつ、歩みを進めるたびに道路の下から独特の尊さを纏って次第に現れる。
すべての文字が見える頃、泉は知らず、浜田の腕を掴んでいた。
「――来た」
呟き、そびえるような球場の前に立つ。
「ビビる?」
「ビビんねえ。気合、入った」
壁の下には、まだ葉の若い蔦が整然と並んで植えられていた。
方々の高校で大切に育てられ戻された株は、我が家へ帰って二年が過ぎてもまだまだ小さくて、以前のように球場の壁を覆うこともできはしない。
けれど、それらは幼い体を精一杯に天へ向けて伸ばしていた。
ここから――。
数十倍もある壁の頂上まで這い上がってやる。
球場から視線を傍に移した浜田を、泉は真直ぐに見返した。
「打てよ。泉」
任せろと、真摯な声は力を持って球場の壁を打つ。
迷い無い心に重圧は心地良い。
今、夏が始まる。
夏/投/列/島/薬/局/
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