*夏景一景
どおん。
広々とした夜空に一閃、放射状の光が撒かれた。
目を上げるのと同時に、地面から腹に響く重い震動が骨を伝い上がり、打ち上げを構成した職人の目論見どおりに圧倒させられる。
引付役の派手なスターマインが一面に花開いた後、上空の光は十尺玉へと引き継がれた。
光の尾を伸ばして空へと上り、立て続けに炸裂していく。
一発目の打ち上げに起きた夕立のような歓声を飲み込むよう、光は重なりながら、大きく空の端へと向けて円を広げる。
最初の振動が鼻先から抜けきると、
――そこにはツンと、感傷じみた痛さが残っていた。
「チャリをさあ、駅前に置いとける?」
「大丈夫だろ? 降車駅じゃねえんだし」
「乗れっかなー?」
「乗るンだよ」
太陽が傾きはじめても、じわじわと地面から熱が染み出てくる夕刻。
空はまだ半分昼のような色をしている。
ただ、着実に夜の準備に入ってはいるようで、生ぬるい風が空気をかき回しながら、今にも発火しそうなまでに上っていた気温を少しずつ鎮めはじめていた。
コンビニの駐車場には、少し早い時間だというのに野球部の姿がある。
一年が経ち、部は今や倍ほどの人数へと育っていた。
入り口横の縁石に座り込んでいた花井が、手にしたパンの最後の欠片を飲み込み終えると腰を上げ、「行くぞ」と声を掛ける。
すると部員達はみな心得て顔を上げた。
毎年八月。たいがい一週目の土曜に、戸田橋花火大会というのがある。川向こうの板橋と日を合わせて合同で開催するため規模が大きく、この辺りでは夏の一大イベントだ。
当日の朝には、家庭や職場から派遣された場所取り要員がこぞってテープやブルーシートを手に埼京線戸田公園駅の改札から勇み出てくる。
その姿はこの暑い時期、駅員達にとって毎年の風物詩となっていた。
そしてそれを見るたびに、彼等は毎年戸田公園駅に到来する嵐の足音をひしひしと感じるのだ。
待ち合わせにはぐれる者。貴重品と一緒に顔色まで失せて助役室へ駆け込む者。早々に浴衣を氷のシロップで汚して泣き言を言う者。
ざあっと、砂交じりの突風みたいな騒音となって頭の中で吹き荒れる恒例の小さな嵐の予感に気付かぬふりをしながら、この日、駅員達は祭事の準備に余念ない。
今日はそんなところへ、練習を終えた一行が無謀にも これから会場までまっすぐ出かけようという。監督達の都合があって早目に切り上げられたとはいえ、練習後の移動で時間もそれなりに押していた。
花井は最初、気乗りがしなかった。
なにせ観客の気合が半端ではない場所だ。毎春熾烈を極める花見の席取りも、実はここで予習復習をしているのではと勘繰るほど観客の誰もが当日は準備に周到で、こんな大人数が何の用意もなく踏み込むなんて想像しただけでぞっとする。
田島家の末弟などは話の出たときから最も乗り気で、毎年一家で確保する広い観覧スペースを提供する気満々だった。
気持ちだけはありがたいのだけれど、昨年の人数ならいざ知らず、正直なところ迷惑をかける以前に溢れるだろうことは簡単に予測できる。行くという前提の上に、場所の確保の万全を信じて疑わない田島の申し出をあしらうことには骨が折れたが、居場所を求めて川べりの通路を右へ左へと押されているうちに、大蛇のような人の波に部員が散り散りにされてしまうことは想像に難くない。
それでも同輩後輩から度々寄せられる熱心な要望に折れ、花井は今日、腹を括って引率役を引き受けたのだった。
部員達がすばやく自転車に跨って次々漕ぎ出す背中を、進行方向から少し離れて阿部が見ている。
置いていかれる者のないよう殿(しんがり)を務めるためで、下級生が入ってこちら、増えてしまった人数に特に示し合わせることもなく、副将のどちらかが大抵集団の最後を見届けるようになった。
騒がしかった駐車場が隣を走る乗用車の走行音だけになり、後について自分もペダルを踏もうとして最後の確認に見渡す。と、取り残された人影が目に付いた。
「泉! 浜田! みんな行ってんぞ」
縁石の数が足りなかったのだろう。店舗の角を曲がった辺りに座り込んでいたから、花井の声が聞えなかったようだ。名を呼ばれて、あっ、と顔を向けてきた泉が慌てて立ち上がった。
浜田の方へ手を上げる仕草をして、小走りにやって来る。
「浜田は? 行かねえの?」
やってきた泉の肩越しに、近付く様子もなく建物の角で見送る浜田に訊ねると、「アイツはバイト」と間髪入れずに返った泉の声に遅れて、
「オレはバイトバイト。楽しんどいで」
浜田はいつもの調子でひらひらと手を振った。
挨拶を済ませて慌ててスタンドを上げ、最後尾二人が慌しく駐車場の縁まで出る。
少しの間しか経っていないというのに、一行の姿は既になく、道路は数珠繋の車ばかりが溢れていた。先の方まで見渡しても、自転車の一団はもう、影すらない。
「あー……悪ぃな……」
「まあ、行き先が分かってんだし。とりあえず埼京線。追いつけなくても河川敷探せば見つかるだろ」
最後尾はようやく道路へと出た。
雲に陽が、薄く紅や橙を撒き、ゆっくりとした速さで宵の化粧を施している夕空の下。道行きに隙間なく詰る車を見れば、どれもたくさんの人と思い思いの支度を載せていた。アウトドア用品と思われる簡単な家財道具らしきまで覗いていて、まるでパニック映画の一シーンでも垣間見ているみたいだ。
流れの悪い車道と歩道の隙間には、排ガスと、車の放つ熱が帯状に溜まっている。
そこを進むごと、体は新しく掻いた汗や熱にまみれ、油でも引いたようにべた付いた。汗は接着剤みたいに、着替えたばかりのシャツを背中や腹に引っ付けて風通しが悪い。ペダルを踏みながら、バランスを取った泉が片手の指で裾を摘むと、腹に密着していたシャツは膜でも剥がれるように剥離した。隙間に、ばくん、と空気が割って入ってくる。
べたついた感触が不快なのか、風が通って爽快なのか分からない。とりあえず、何もしないより暑さは凌げた。
泉の前では、やっぱり車の放つ熱気に耐えかねたのか、阿部が腰の辺りのシャツを指で摘んでいた。暑そうに剥がしたシャツを振って、しきりと風を入れている。人工的な熱に当てられ、いくらか辟易した手つきだ。
青かった信号が、奥から順に赤へと変わる。ゆるゆると走っていた車が一台、また一台と動きを止めはじめた。
これで、集団との距離はいっそう開いてしまうのだろう。
「なーっ! ロッカー空いてっかなあ?」
「あいつらが詰め込んだ後には正直キツイんじゃね?」
信号を待つあいだ、足で漕ぐように自転車を近付け、訊ねてきた泉へ阿部は振り向いた。 前かごに載る大きなスポーツバッグ。混雑が容易く想像できる車内へ持ち込むには勇気のいるサイズだ。しかも、似たような荷物が自分のかごにまで積まれている。
家に置いてくか。という考えが阿部に浮かんだ。
この信号が、現地捜索の可能性を決定的にしただろうし、多少迂回しようが、このまま渋滞の中を縫って、いらつく速度で道筋を追おうが差して変わらない。第一、駅に着いたからといって、やって来た最初の列車に乗れる保証はどこにもなかった。
「ウチ置いてくか? ちょっと回るけど、もう花井達には追いつけそうにねえし」
「どんくらい?」
「別の駅に出ちまうけど、こっからなら家経由で駅まで十五分くらい。泉が逸れないならもう少し早く着く」
泉は一度、赤信号の上に地図を描くようにして現在地から駅までを計ると、了承して頷いた。
そして阿部の方を向き、にっと口の端を引いて笑う。
多少の遅れより確実に身軽になれる方が助かると判断した顔だ。直前にきっちり距離と時間、重量と手間とを秤にかけ、得な方を見極める経過を見守っていた阿部は、
(へえ――)
呆れ半分、感嘆半分で内心呟いた。
普段、何かと繰り広げる二人組に目が行きがちだからか、泉についてはいまだ、頭の中で理解している泉という人物像と、実際の当人の所作との間に、多少のずれを感じさせられることがある。だから今も、
――思いの外、ちゃっかりしている。
と、泉について、少し改めさせられた。
けれど元々、当人が狡猾さと縁遠く、物事をこざっぱりと考える性分をしているから、損得を量る一面も嫌味には見えず、提案を良い方へ評価された事は、まんざら悪い気がしない。
(どうよ。良いこと思いつくだろう)
と、ごく少しだけ、阿部は得意な気になれた。
二台の自転車は直進を止め、青に変った交差点を鍵形に渡りはじめた。後は信号を避けるため脇道を左に入り、東北本線を越えて住宅街をジグザグに走っていく。
公園の遊歩道や家々に茂る植え込みは、みな濃い影を蓄えていて、まだ空の明るいうちから灯された外灯に、住宅街全体は実際より薄暗く見える。
飛ばし気味の背中を追って自転車を駆りながら、泉は帰りの道順を覚えようと左右へ目を配るものの、道は淡々と印象の薄い町並みが続いた。これといった目印もない。
帰りは方角だけに頼ることになりそうだと思いながら、貸し教室とコンビニと、反射鏡付近の景色を頭に入れた。
十分を少し越えたくらいで到着した阿部の自宅へ荷を下ろし、ポケットに必要最低限の携帯と財布を入れると、持ち運んでいたわけではないのに、格段と身軽になって精々した。
更に自転車で五分ほどの移動重ねてようやく、埼京線の高架駅に着く。
「どこもかしこもスゲーな」
停める場所もない駅前駐車場と、背後に場所を求めて右往左往する渋滞を見比べ、泉は改めて目を丸くしている。
「感心してんなよ。こっちも乗んのに一苦労あるぜ」
「マジで!?」
「マジ。……え? 行ったことないとか?」
泉は口を半開いて、こくりと頷いた。
初めて花火大会の洗礼を受ける泉に、阿部が同情の目を向けると、得体の知れない反応に不安を感じたらしい。券売機の口に硬貨を挿しながら、泉は心地悪そうに、きゅう、と肩を窄ませた。指から離れた硬貨が硬い音を立てながら券売機の中へ落ち、数区間分のボタンが点く。
「ねえよ」
言いながら、埼京線の路線すら見慣れないのか、たった数駅先の駅名を探して目を泳がせる。
「ねえなあ……。小学校の時は今ごろって親の田舎だし」
「まあ、それはあるかもな」
やっと見つけた駅の乗車賃表示を眺めて切符を選びながら、泉は行く機会のなかった理由を続けた。
「中学でも毎日部活あったじゃん。で、今年も――」
改札を通りながら言いかけて一度言葉をおき、
「――考えて、なかったろ?」
切るように言い残すと、泉は軽い足取りで階段の二段目に足を掛けた。鉄道や交通施設にありがちな幅の狭い階段を軽快に一段飛ばしながら、ホームへ上がっていく。
その背にすぐに付いては上らず、階下から、阿部は蛍光灯に黄ばんだ構内を無言で見上げた。終いの一言が妙に素っ気なく感じて、一歩踏み出しそびれたのだ。
今年、花火大会に行くなんて考えもしなかった。
耳の中に、どこか据わり悪く着地した言葉を紛らわせ、阿部は一段、もう一段と遅い足取りで階段を踏みしめてホームへ上った。先に上りきっていた泉は通過する快速の混雑に遭遇し、早くもくたびれた顔でそれを眺めている。
げっ……、という呻きが快速列車の突風にさらわれて、進行方向へ飛び散った。
「アレに乗んの?」
「乗るんだよ。大宮からこっち、どこも似たようなもんだ」
「うぇ……」
我慢がならないのか泣きそうな声で嘆き、泉は救いを求める目を阿部に向ける。
今しがた、自分の言った言葉が足を止めさせたために、阿部が遅れて上がってきたことには気付く様子もない。特に深く考えず喋っていたのだろう。
通過用とはリズムの違う、列車到着の警戒音が続けて鳴った。
緩いカーブの端から一対のライトが現れ、みるみる近付いてくる。快速に負けない量の乗客を積んだ車内が見て取れた。途方に暮れるほど人口密度の高い列車が温風を巻き上げ、ホームへと滑り込んでくる。
ドアが開けば足を乗せる隙間もない。それなのに躊躇する間もなく、乗客が乗降口に群がる。
腕を畳んでおかなければ、人の体にへし折られてしまいそうだ。阿部は少なからず慄きながら、離れないよう咄嗟に掴んだ泉を引っ張った。泉は泉で、やっぱり怪我でもしそうな圧力に戦々恐々として、乗車を辞退しようと怯んだ所、結局後ろの乗客から強引に車内へと押し込まれた。
閉まる扉が乗客をぎゅうぎゅうと束ね、ホームから列車が出て行く。中は寿司詰めで、揺れに踏み留まろうにも、踵を下ろす隙間もない。
乗客に揉まれながら、僅かな隙間に押し込まれて体が変形してしまいそうだった。比重の重い液体同士が揺れあうようにして、車両が傾くたび、四角い車内にとぷりと人が波打つ。
これが殆ど同じ駅で下りるのかと思うと、気が遠くなる。
「……死んでも通勤ラッシュに乗り合わせたくねぇな」
吊革を持つ人の腕に頭を押され、泉がすっかり降参しきって音を上げた。
「戸田公園まで……どんくらい?」
「乗ったばっかだし、十分くらいだろ」
聞くなり、泉は自分で支えていた頭をかくりと垂らした。十分。と呟く声は途方に暮れている。
「言ってる間に着くって」
阿部の目の前にはちょうど泉の頭ひとつ分、隙間が空いていた。
体の方は肩まで埋まっているように身動きできないが、首から上には多少自由が利く。その隙間から窓外に目を向けると、平地に低く箱が連なったような町の影に、同じ大きさのもの同士、小さな四角い明かりの集合がいくつも浮かんでいた。
光の色合いはまちまちで、けれどどれも、お互い控えてほとんど主張しあうことはない。時折コンビニの看板や個人商店に設置された屋外灯が現れ、目をひいては窓から流れ過ぎていった。
右の肩には乗車した途端にぐったりしてしまった泉の頭が乗っている。それなりに重い。けれど、元から付近に立っている人間の体重が方々に分散し、お互い圧し掛かりあっているような状態だから、気にはならなかった。
先ほどの言葉がもう一度頭に浮かぶ。
今年も――、考えてなかったろ?
何気なく、泉の口を衝かせた言葉が何を指すのか。
戸田の花火を見るような余暇ができることなど、思いもよらなかったと、深く考えもせず吐かれた言葉の裏には、今日として実際に迎えたこの日と、少し前まで思い描いていた想像上の今日との違いが埋もれているように思う。
たまたま練習が早く終わったことを言ったのだろう。けれどきっと、それだけではない。別段の意識をしていなくても、本来、泉はもっと別の今日を思い描いていたはずだ。
まだ、きっかけ一つで、簡単に阿部の頭を埋めてしまえる出来事がある。
梅雨が明け、蝉の声がすっかり耳慣れた頃。
予選という殻を破ることなく終わった今夏の事だ。暗い地中から、もう一歩で這い上がれようかと期待を強めてすぐに訪れた幕引きはあまりにあっけなかった。
思い出せば悔いの一言では括りきれない気持ちが腹の底に溜まってくる。去年までを糧に、より周到に準備を重ねて臨んだはずだった。
実際の勝数やそれぞれの試合結果はとにかく、一年前なんて全く比較にならない速さで過ぎ去った。
目標へ挑むことを許される三年の夏まであと一年。
ずっと先に思えていた最後が着実に近付く足音と、試合を終え、整列のために駆け寄るチームメイトとのそれを重ねて聞いた敗退の日のことは脳裏に焼き付いている。
砂埃と涙にぼやけたグラウンド。気持ちは次へと切り替わっていても、それが輪郭を削り、他の記憶と馴染みあうには、まだまだ日が浅い。
だから泉が吐いた一言に、思わず足を止めてしまった。
学校付近を出発した頃より色の沈んだ空に、弱々しく光る星を見つけ、視界の後方へ流れていくのを目で追う。
敗退して、グラウンドから引き上げていく部員達。
あの日も自分は退場の殿を務めようとでもしたのか、グラウンドで彼等の背中を呆然と見送っていた。泣き崩れる奴も、拳に悔しさを溜め込んで歯を食い縛る奴もいた。
三橋や、田島。花井の顔はよく覚えている。
けれど。
(コイツは――、どうしてたんだっけ?)
泉は、どんな顔をしていたろうか。
部員達の中に、無論泉もいる。それなのに不思議と、すんなり、どんな顔をしていたかは思い浮かばない。
すぐ目の前にいる当人を盗み見ても思い出せない。今は混雑へのストレスをやり過ごそうとしているのか、鬱陶しそうに口を引き結び、押し黙っている。
「泉」
「……あぁ? 何?」
「今年、――なんで考えてなかった?」
肩から重みが抜ける。焦点の甘い目が覗き、億劫そうに阿部を見上げた。首の後ろから乗客がつり革へ手を伸ばしているために真っ直ぐ立つことができず、頭の位置が低くなっている。そこから覗き込むよう、泉が自分の瞳に対して焦点を結んでくるから、頭の中を見透かされるようで落ち着かなかった。
「何をだよ?」
「花火」
「花火?」
頭を支え疲れたのか阿部の肩に顎を置き、泉は訝しげな顔をする。
予選のこと、引きずってねえ?
とは、訊き辛い。
次へと目標を決めて動き始めているこの時期に、こうして自分がまだ結果に固執していることを知れば、泉のことだ、いつまでも終った事にしつけえ、とでも呆れかねない。
「なんでって、こんな早く帰った日、去年あったか?」
「――ねえな」
「だろー。予定に入れらんねーじゃん」
もっともだ。
そうそう何でも予選敗退に結びつけはしないものなのだろう。
気抜けして息を吐くと、動作に反応して泉の目がちらりと動いた。変なことを訊くとでも思ったのか、阿部の様子を窺っている。
物事を見通してしまいそうな目に落ち着かなくて、その後、戸田公園駅への到着まで、阿部は黙って暮れる町並みを見ていた。
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